第29話 新しい棲みか
疑いの目を向けるムササビに、玄斎様は「心配には及ばんよ」とうなずいた。
今度は、土間で控えている直実の父の方を向く。
「まだ、お名前を伺っておりませんだな。庵主の玄斎と申します」
「菱田と申します。大学の准教授です。こちらは、娘の直実です」
直実の父が、慌てて頭を下げる。直実も一緒に会釈をした。
「菱田さん。こちらの方を、新しい棲みかにお連れしますでな、車を出してくださらんか」
玄斎様がにこやかに言う。直実の父は戸惑っていたが、すぐに気を取り直して了承した。
留守番と連絡係のため、鈴子が庵に残ることになった。残りの五人で出発する。
ムササビが体を明け渡さないので、宮子はまた寛太に背負われて階段を下った。
上りよりも膝に負担がかかっているようで、最初は一歩ごとに一段下りていたのが、いったん両足を揃えてからそっと次の段に足をさすようになった。
玄斎と寛太に挟まれて、後部座席に座らされる。山へ続く狭い道をしばらく走り、奥駆道近くの空きスペースで車が停まった。
再び寛太に背負われて、山道に入る。舗装されていない土の道は、慣れない者には歩きづらく、前を行く直実親子は石やくぼみに足を取られていた。
しかし玄斎様は、そこだけ重力が違うかのように軽やかに進んでいく。寛太も、宮子を背負っているのに、つまずくことなく後に続く。
大きな岩のある広場へと着いた。霊場らしく、空気が引き締まった感じがする。
「ここはどうじゃな?」
玄斎様が立ち止まって振り向く。
「ちょうどいい大きさの木も並んでおるし、太陽が直接当たらん。霊場の近くだから、空気もいい」
宮子の中のムササビが、品定めをするようにあたりを見回し、においを嗅ぐ。人の手が入っていない林は、太陽を適度に阻み、涼やかな空気を保っている。朽ちた葉が混ざり合う土の香りに、不思議と気持ちが落ち着く。
「気に入ったかな。……では、お送りしてよろしいかの」
宮子の体が、うなずくように瞬きをした。
玄斎様が合図をすると、寛太は宮子の体を下ろし、肩を支えて立たせた。
「何か言っておくことは、ありませんかな」
玄斎様が、直実の父に言う。しばらく沈黙が続く。やがて、かすれた小さな声がした。
「……申し訳ない」
玄斎様は笑顔でうなずくと、こちらを見た。
「儂からも、詫びさせてもらう。すまないことをした。達者で過ごしなさいよ」
背後に回り込んだ玄斎様が、真言を唱える。
掛け声と共に、強烈な風が宮子の体を貫いた。衝撃で、宮子の意識もムササビも、肉体からはじき出され、木々の間へと飛び去った。景色が流れ、模様のようにしか見えない。
腹に縄が巻きつく感覚がして、宮子の意識だけが引き留められた。
隣り合っていた黒い靄が、ムササビの姿となり、手足と皮膜を誇らしげに広げて飛んでいく。
──元気でね。人間のせいで、嫌な思いをさせて、ごめんね。
いったん木の枝にとまったムササビが振り返り、つぶらな目で宮子を見つめる。が、またすぐに手足を広げて木々の間を滑空し、やがて見えなくなった。
巻きついた縄に引っ張られ、周りの景色が乱れる。世界がぐにゃりと歪む。
気がつくと、宮子の意識は体に戻っていた。
手を握ったり広げたり、軽く足踏みをしたりして、体の主導権が自分だけにあることを確かめる。
「やっと戻ったな」
支えていた手を離して、寛太が言う。その口角が少しだけあがっていることに、ほっとする。照れてしまってうつむきながら、「ありがとう」と小声で言う。
今度は玄斎様に向き直り、頭を下げた。
「助けていただき、本当にありがとうございました。早朝からご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
迷惑とは思っとらんよ、と玄斎様が笑う。
「宮子君は
「よりまし、ですか」
「ほれ、『源氏物語』なんかにも出てくるじゃろう。神々や他者の霊を自分の体に乗り移らせて、その声を代弁する者のことじゃよ。宮子君は、心が柔軟なんじゃな」
気をつけていないと、また体を乗っ取られるということだろうか。
「もう二度とごめんです」
まあ、そうじゃろうな、と玄斎様がまた笑う。
「では、他のものに入られないように、あるいは入られても平気なように、宮子君自身が強くなりなされ。瞑想は毎日しておるかな?」
以前、この世ならぬものが見えることで精神的に不安定になったとき、心を強くする方法として瞑想を教えてもらったのだ。毎日どころか、週に一度すればいい方だ。大事なことだとわかりつつも、実害がないときは、つい、さぼってしまっている。
「……いいえ」
宮子は消え入りそうな声で言った。
「できるだけ時間を決めてやりなされ。そうそう、月に一度、庵で法話と瞑想の会をすることになったから、宮子君もおいでなさい」
今度こそちゃんと心を鍛えようと誓いながら、宮子は「はい」と返事をした。
「菱田さん」
玄斎様が、直実の父に向き直る。
「あなたにも主義主張があるのはわかりますが、それ以外のものを信じ、そのルールの中で生きている者もたくさんおります。自分と違う価値観を認め尊重するのが、本当の知識人ではありませんかな?」
直実の父が、居心地悪そうにシャツの裾をつかんでから、姿勢を正し「まったくその通りです」と言った。
「今日のことを信じる信じないは自由ですが、あなたの行動が原因で、この娘さんを危険にさらしたことは、忘れんでくださいよ」
はい、と言って直実の父が深々と礼をする。隣の直実も、一緒にお辞儀をする。
「では、帰りましょうかの」
先ほどまでの厳しい口調とは、打って変わってとぼけた声で言い、玄斎が元来た道を歩き始めた。
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