第38話 久米の仙人
「俺は、自分のことで精一杯で、親父の異変に気づいてやれなかった。俺が先にキレてしまったから、親父は自分のつらさを吐き出すこともできなかったんだ」
寛太の声に、現実へ引き戻される。目の前の彼は、関節の色が変わるほど拳を握りしめている。
「それは……子どもだったから、仕方がなかったのよ。玄斎様も、もう少ししたらお父さんを支えられると思ったからこそ……」
「親父一人守れないで、何のための修行だ。俺は結局、逃げてたんだ。自分だけ清らかになった気分で、救われたみたいに感じて、調子に乗ってただけなんだよ」
語気の荒々しさに戸惑いながらも、宮子は首を振った。
「……違うよ。心を育てるために、一生懸命修行してただけじゃない。私、ずっと見てたから知ってるよ。他の子が遊んでるときも、毎日瞑想して、足をくじいても山を駆けて、経典も学んで。痛んだ木が元通りになるよう手当をしたり、野鳥や狸にも話しかけたり、蚊一匹殺さないくらい命を大事にしてる。命がないものに対しても、一生懸命供養してる。サーヤを助けるのも手伝ってくれた。逃げてなんかないよ」
弁護しようとする宮子に、寛太が皮肉っぽく笑う。
「ああ、あの幽霊の友達か。あいつも殺されたけど、ちゃんと天に上がれたんだよな。俺の母親は、一度も出てこないよ。輪廻した先で困らないよう、精一杯の供養はしてるんだがな。どうなったのか、確認のしようもない」
言葉を探す宮子の耳に、自分の心臓の音が響く。
「なあ、救いって何だよ。母親がどうなっているかも確認できない、親父は事件から七年近く経った今も、苦しみ続けている。俺自身も」
寛太が両手で頭を抱え込む。
「夜、勤行して、玄斎様と親父の病気平癒の加持もして、その落ち着いた心のまま眠っても、嫌な夢を見る。血だらけの母親や、黒いものに巻きつかれた親父が、こちらを見ている。その度に思い知る。俺だけが光の方へ進むわけにはいかないって」
そんなことない。そう叫びたいのに、喉がふさがれたように声が出ない。
言葉を失っていると、寛太が両手で自分の顔をこすり、頬を軽く叩いた。
「……すまない、疲れでつい気が緩んだ」
口元だけで寛太が笑う。
「そんな心配そうな顔をするな。たとえば、新幹線で隣の席の人が弁当を買おうとしたら、すべて売り切れだったとする。自分は弁当を持っているけど、そんな状態では食べづらいなぁ、っていうだけの話さ」
寛太が左腕の袖をめくり、時計を見る。傷だらけのスポーツウォッチと、木製の古びた数珠をつけている。
「そろそろ電車の時間だろう。駅まで送る」
寛太が立ち上がって上着を着、空き缶を持って歩き出す。
宮子は声を絞り出すように言った。
「半分こする」
寛太が不思議そうな顔で振り向く。
「新幹線で、隣の人がお弁当買いそびれてたら、自分のを半分こしましょうって言う。そしたら、相手も自分も、気分良く半分食べられる。断られても、気兼ねせずに済む」
寛太が声を出して笑った。
「それ、新幹線でやったら、おせっかいなおばちゃんだぞ」
しばらくの沈黙の後、寛太が言った。
「お前、いい神主になるよ。がんばれよ」
缶を捨てに行く彼の後ろ姿はどこか寂しそうだった。宮子は不安を消し去れないままコートを着て、開けていない缶コーヒーをバッグにしまった。
夕暮れの雪道を黙ったまま歩く。二メートル以上離れているので、話しかけられないのがもどかしい。
駅に着くと、改札内の待合室から鈴子が出てきた。こちらに気づいて、改札口まで近づいてくる。
「へへ、乗り遅れちゃった。……あ、寛斎兄ちゃん、このマンガ読む? 私、今読み終わったから、返すのはいつでもいいよ」
鈴子が、改札の柵の上にマンガを置く。寛太が「サンキュ」と笑って本を取る。
「そうそう、『ギャラクシア』劇場復活版、夏に公開だって。一緒に観に行こうよ」
「それは観たいな。夏にはどうなってるかわからないけど、行けそうなら一緒に行こうか」
鈴子が「約束のエア指きりげんまん」と一人で指切りを始めると、寛太も同じ仕草を返した。
「無理せず、体に気をつけてね。玄斎様によろしく」「お前も、受験がんばれよ」といった型通りのあいさつを交わして、改札を通る。
電車に乗り込む寸前に振り向くと、寛太が軽く手をあげて会釈した。
鈴子と並んで腰かける。電車は、がら空きのまま走り出した。
「で、お姉ちゃん、ゆっくり話せた? 気をきかせて先に帰ったんだから」
宮子は鈴子の肩に体当たりをしてから、ぽつりと言った。
「らしくないほど混乱してた。玄斎様があんなだし、お父さんがずっと苦しんでることを目の当たりにしたから」
「そっか。玄斎様が治ってくだされば、万事オーケーなのにね」
車輪の音が、規則正しく響く。
「力になりたいのに、何をすればいいかわからないし、結局何にもできない。……私、こんなんで神主になれるのかな」
鈴子が隣で「うーん」と唸る。
「あんまり考えすぎると、本当に何もできなくなっちゃうよ。羊羹差し入れたり、マンガ貸したりして、気にかけてるよって伝えるだけでもいいんじゃないかな」
「鈴ちゃん、それでマンガ貸したの?」
「私だって本当は、こんな大変な状況のときに本貸すほど能天気じゃないもん。寛斎兄ちゃんには、自分を忘れる時間が必要なんだよ」
自分を忘れるって? と訊くと、鈴子が語り始めた。
「寛斎兄ちゃんはアニメやマンガが好きだけど、特定のキャラに惚れ込んだりはしないでしょ。たぶん、アニメの世界を楽しんでるときには、自分が存在していないからだよ」
中学生になってから鈴子は急に理論をこねくり回すようになったな、と思いつつ、妹の話に耳を傾ける。
「つまり、現実の自分を忘れられるから、フィクションの世界に浸ることが好きってわけ。寛斎兄ちゃんには、現実逃避の場所が必要なんだよ。一時だけでも気を休めるシェルターが」
宮子の中で、何かがつながった。彼が山の修行中に自然と一体になることを好むのも、師僧に仕えて我をなくすのは気分がいいと感じるのも、すべて自分を忘れたいからではないか。
「……そんなにも、現実が厭わしいんだね」
自分もその厭わしい現実の一部であることが、哀しい。鈴子がさらに続ける。
「現実逃避くらいで止まってくれたらいいけどね。あの『清僧』ってやつは、やめた方がいいと思う。お姉ちゃん、誘惑して久米の仙人にしちゃえば?」
久米の仙人とは、奈良県に伝わる民話の人物だ。修行をして神通力を得たが、空を飛んでいる最中に、川で洗濯をする女性の太ももを見て色欲を起こし、力を失ってしまったという。
「ちょ……鈴ちゃん、なんてこと言うのよ」
肩を叩くと、鈴子はケラケラと笑った後、急に真剣な声になった。
「真面目な話、寛斎兄ちゃんは、神通力とか験力みたいな飛び道具は持たない方がいいと思う」
たぶん、鈴子も自分と同じことを危惧している。宮子は「うん」と返事をして、黙り込んだ。車輪の音だけが、無言の二人の間に響き続けた。
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