第42話 因縁

『おい翔、間に合いそうか~』

「わりい。本番三〇分前くらいに着きそう」

『ったく。早く寝ろって言ったのは翔なのになんでお前が寝坊してんだよ』

「それについては後で釈明する」

『せっかく空き教室で練習させてもらえることになったのになぁ。しゃーない、オレたちだけで通し練習するわ』

「すまん。頼む。じゃあ切るわ」

『急ぎ過ぎて怪我とかすんじゃねえぞ~』


 翔は電話を切って、駅までの道筋を早足で駆ける。背負ったベースが上下に跳ね、ギグケースが肩に食い込むのが痛い。

 忘れ物はないか思案しかけたが、すぐやめた。今日は楽器さえあればいい。そういう日だ。


 ちなみに生徒会の仕事は文化祭一日目に終わらせてあるため、二日目の今日は片づけ、事後処理のみとなっている。他の生徒会メンバーに相談したら快く受け入れてくれたのだ。二日目はバンドだけに集中できるように、と。

 心の中で生徒会メンバーに感謝しつつ、翔はひたすらに足を動かす。

 電車に乗り、また走り、校門付近についたところで一息つく。

 なんとか本番三〇分前についた。ここから急いで体育館向かって準備しないと。

 息を整えるために、花壇の縁に腰掛けていると、「あれぇ?」という、甲高い声がすぐ近くで発せられた。

 この声は。


「キモオタじゃ~ん。何そんな汗だくで息切らして。変質者に間違われるよ?」

「それな! ちょっと沙紀笑わせないでよ!」


 弘子と沙紀。

 翔は走ったことによる汗とは異なる、ねばっこくて不快感のある汗をかきはじめた。

 落ち着け。今こいつらにかまっている時間はない、最悪無視してでも。


「今日さぁ、克己クンがバンドやるって聞いて駆けつけたんだけど、その背中のギター……え、もしかして、やっぱりキモオタも一緒にやるん!? えー写真撮ろうと思ったのに、キモオタ映り込むとかヤダわぁ」

「いや弘子、逆に考えよ? 克己クンの最高の引き立て役じゃない?」

「言えてる! そうゆう発想の転換的な? 大事だよね実際! 役に立つじゃんキモオタ!」

「あ~でもやっぱダメだわ。キモオタ、どうせ兄弟のよしみでバンドに入れてもらってるんしょ? つーことは他のメンバーは克己クンの選んだイケてるメンツってことでしょ? バンドって統一感大事やんね。それ考えると」

「ダメだね、うん。キモオタ、今からでも間に合うから大人しく引き下がっておきなよ、ね? イケてるメンツの中にキモオタ一人だと絵的にも雰囲気的にもキツいっしょ? キモオタのためでもあるし、克己クンのためでもあるし、なによりアタシたちのためでもある!」

「弘子の言う通りだね~。ちゅうわけでキモオタ、ここは辞退の方向でよろしくぅ」


 弘子と沙紀は見下すようなニヤニヤ笑いを浮かべながら、翔の肩をバンバンと強く叩く。

 翔は微かに震えながら、うつむく。汗が流れ落ち、地面にシミを作った。

 何も言わないことを肯定ととらえた二人は連れ立ってその場を離れようとした。


「んじゃよろしくキモオタ~」

「あ~克己くんのライブ楽しみだな~。ライブ終わったら一緒に写真撮りたいな~」


 遠のいていく背中。

 目を背けてきた。怖いものからは逃げてきた。

 やりすごせばいいと思っていた。

 そうやって、自分の心に嘘をつき続けてきた。

 その嘘は積み重なっていって、いつしか自分の表面をびっしり覆っていて、自分の一部となっていた。


 今は。

 克己の一言からはじまった、この半年近くの出来事。

 何回も、はがされてきた。見たくもなかった自分自身をさらけ出さざるを得なかった。

 同時に、埋もれていた『自分』が、姿を現した。

 その『自分』が、嘘を重ねることを拒んでいる。


『自分』の心に声に従え。そう言ったのは、誰だっただろう。

「……嫌だ」

「は?」

「え、なになにちょっと待って。もしかしてキモオタ、今、嫌だって言った?」


 ぐるんと急に振り向いた弘子と沙紀は明らかに不機嫌になった。口はへの字に曲がり、眉間にはシワが浮かんでいる。


「だ、だから。引き下がらないって言ってんだ。俺は、克己と、克己たちとライブをする。お、お前らに何て言われようとも、変わらないから。それだけは譲れないから」


 沙紀の顔から表情が消え、翔の元につかつかと歩み寄り、胸ぐらをつかむ。


「な~に調子くれちゃってるのかなぁキモオタの分際で。おめえは中学ん時みたいに大人しくハイハイ言うこと聞いてればいいの。分かる?」


 翔より背が低いはずなのに上から見下ろされている気がして、呼吸が浅くなる。

 一度目をつぶり、暴れる心臓をなんとか押さえ込む。

 見開いた瞳を、沙紀にぶつけながら、翔は震え声で応えた。


「う、うるさいんだよ。何様のつもりだお前。い、いいか、何回でも言うぞ。俺は克己たちとライブをする。誰に何言われても、やる」


 沙紀は反発してきた翔に一瞬たじろぎ、しかしすぐに強気な面もちに戻って、翔の胸元を一層キツく締める。


「口答えしてくんな。むかつく」

「おっとぅ、荒ぶってるねぇ」


 翔を締め上げている手をほどいたのは、ごつごつとした大きな手だった。


「か、克己クン!?」


 突然克己が現れたことに対する驚きと、克己に手を触られたことに対する喜びで沙紀の顔が朱色に染まる。


「ごめんな、翔はこれからオレとライブすんだ」


 克己はそそくさと翔の肩をつかんでその場を離れようとしたが、背を向けた克己の腕を弘子がつかんだ。


「ちょっと待って! マジでキモオタとライブするの? やめた方がいいって絶対!」


 立ち止まった克己は、困ったような笑顔を崩さず、やんわりと弘子と距離をとる。


「翔、オレたちのバンドのリーダーなんだよね。こう見えてギターとかベース上手いんだぜ?」

「そうだとしても、華がないじゃん! 克己クンだってそう思うっしょ? 中学ん時、克己クンがキモオタと一切絡まなかったのだって、自分の評判気にしてからでしょ?」


 克己の笑顔が崩れていく。痛みを耐えるようにぎゅっと目をつぶった後、少し怒ったような、まなじりを吊り上げたような表情へ変わるとしている。

 いけない。このままじゃ、克己が、弘子に対して強い言葉を使ってしまう。そのせいで、克己についての良くない噂を流されるかもしれない。自分の、せいで。それだけは、避けなければならない。

 その一心で、翔は身体を克己と弘子の間へ滑り込ませた。

 背の高い弘子を見上げ、眼光鋭く相手の目を真っすぐ射貫く。


「まだ言わなきゃいけないのか。いいか、俺は、お前らの言いなりになんてならない! 華がない? 上等だ! ライブの良し悪しは顔じゃねえ、テクでもねえってとこ見せてやんよ! 最高のメンバーとな!」


 前髪をかきあげ、素顔で凄む翔に、弘子は一歩、後ろに退いた。


「うわ、唾飛んできた。サイアクなんだけど。なんか萎えたわ。克己クンも機嫌悪そうだし。帰ろ。はぁテンション下がるわ~」


 ダルそうに頭をかきながら、翔たちに背を向ける弘子。


「ま、またね克己クン!」


 おろおろと弘子に追随する沙紀。

 去っていく二人を、翔は荒い息を吐きながらにらみつけた。

 そして次の瞬間、脱力。そのまま倒れるように花壇の縁へ腰をおろした。


「ぷはぁ。疲れた。しんどかった。つかどうせならライブ見てけよ」


 膝に手をつき、深呼吸を繰り返している翔を、克己は口を半開きにさせて見下ろしていた。


「翔、お前、変わったよな」

「どこも変わってねえよ。今だって膝が笑ってる。情けねえ」

「いや、変わったよ。ブレイクスルーつか、なんつーか」

「てか、今こんな話してる場合じゃない。ライブまで時間ないってのに、余計なことに時間使っちまった。控室行こうぜ」


 頼りない足取りながら、自分の前を行く翔を、克己は眩しそうに見つめた。

 助けに来たつもりだったのに、結局翔は自分自身で解決してしまった。

 克己に尊敬の念を抱かれているとは露知らず、翔はじわりじわりと、先ほどの出来事を消化していた。

 はじめてあの二人に、言い返すことができた。自分の気持ちを伝えることができた。


 それが無性に誇らしかった。

 もう二度と会いたくはないが、もし次もまた同じようにからまれたら、きっと、もっと上手く言えるだろうという確信があった。

 過去を清算できたような清々しい気分で、廊下を歩く。

 これから、氷上、克己、優子と、一生忘れられない思い出を作りにいくんだ。

 翔の感情の高ぶりは、縁からこぼれおちそうなほどに熱く、今ならなんでもできそうな、そんな気がしていた。

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