第38話 頓挫
教室での氷上はいつも通り。年季の入ったポーカーフェイスで外を眺めている。
この日一日、氷上は一度たりとも翔と目を合わせようとしなかった。
授業も、自習も、機械的に、習慣通りに。ただ、頭に入れていくだけの作業。
いつもは箱の中に落ちていくそれらが、縁に当たり、ポロポロとこぼれていく。
「おい、翔。どうしたんだよ。箸からおかず落ちてんぞ」
「あ、ああ」
放課後。両親は帰りが遅いため、翔と克己の二人で夕食を摂っていた時のこと。
上の空な翔に疑問を感じる克己だったが、疲れているのだろうと結論づけ、話題を振る。
「次のスタジオのことなんだけどさ」
「……スタジオ、か。もう、行かなくて、いいんだ」
ショックから抜け出せない翔は、まだ克己と優子に、氷上脱退を知らせることができていなかった。
「は? 何言ってんだ。疲れすぎて頭回ってないのか?」
「違う。あのな、その」
翔が言いよどみ、克己が追求しようとした時、玄関の鍵が開く音が、リビングまで届いた。
「話は後だ。父さんか母さん帰ってきたからスマホでまた連絡を」
克己はそう言って、急いで夕食をかきこみはじめた。
「その必要はない。部屋に直接来てくれ。大事な話がある。克己が勉強で分からないところがあるらしいから少しだけ教える、って言っておくから」
「? お、おう」
抑揚のない声。生気の感じられない瞳。
明らかに憔悴している翔の様子を見て、よっぽどのことが起こったのだと察した克己は、後で翔の部屋に行くまでは余計なことを言わないようにしようと決めた。
「ただいま」
「「おかえりなさい」」
帰ってきたのは母親だった。
ずれていた銀縁メガネを片手で直し、リビングの壁に設えてあるフックにジャケットをかける。カバンをソファに投げだしつつ腰掛け、ふぅ、と大きく息を吐きながら天井を仰ぐ。
「疲れた~」
「おつかれ」
母親の話し相手は翔がよく務めている。今回も翔がねぎらいの言葉をかけた。
「スケジュールの遅延が……今週は外回りが増えそうだわ。あ、そういえば、翔、あなた、どうして私に言ってくれなかったのよ。氷上家のお嬢さんと楽器やら何やらやってるってこと」
まさか母親から氷上という名が出てくるとは思わず、翔の箸が止まる。
「え、なんで、は? どうして母さんがそのこと知ってんだ?」
「私の会社と氷上さんが経営している会社、今年から大型案件を共同で進めててね。私と氷上さんが直接打ち合わせする機会があったんだけど、一緒に移動してるときに見かけたのよ。あんたたちを。楽器背負って二人でなんとかスタジオ? って書いてある施設に入ってくものだから、私も氷上さんも驚いて、仕事中なのに雑談が捗っちゃってしょうがなかったわ。価値観が似てるのねきっと。今度プライベートでお茶することになったのよ」
仕事のグチから一変、氷上の母親との話になった途端上機嫌に話し始めた母親を、翔は呆然と見つめた。
バンド活動がバレた経緯。
変装してても、家族が見れば、背格好その他の情報で判別できる。
楽器やらなんやら、と言っていたことから、母さんはバンドをすることを知らないのだろう。きっと、氷上の母親が氷上を問いつめ、吐かせた。
克己はのんきに母親の話を聞いて頷いていた。氷上の家庭事情、脱退を知らないから。
「氷上さんはすごい方だわ。先代から丸投げされた会社を一人で立て直す手腕。積極手にボランティアに参加したりセミナーを開いたりと地域貢献もされている。それに教育熱心で下の娘さんと息子さんは有名私立に通ってるだとか。それでね、氷上さん、上の娘さんに今は受験勉強一本に集中するよう厳しく言い聞かせるんだって。翔、あなたも成績が下がったら、趣味の制限をさせてもらうから。……最近、克己がよく電子ドラム使ってるようだけど、まさか翔をそそのかして何か」
「母さん。それはない。変な勘ぐりをするのはやめてくれ。こないだの全国模試の結果、ちょうど昨日返ってきたから見せるよ」
翔は残り少なかった夕食を一気にかきこんだ後、急いで部屋に戻り、結果用紙を持ってくる。
「この通りA判定だ。克己のも勝手に持ってきた。B判定。克己は成績の伸びがいいって先生から褒められてたし、A判定になるのも時間の問題だ。だから安心して。ストレス発散は効率的に勉強していく上で必要不可欠。根性論なんてもう古いよ」
普段は自分に対して柔らかい態度の翔が、真剣に、どこか非難するような声音で迫ってきたため、母親は気圧された。
結果を持ちだされれば、もう何も言えない。
「そう。順調なようで何より。その調子で第一志望に受かるのよ」
そうやって話を切り上げ、自分の部屋に戻ろうとする。
背を向けた母親に、翔が、今度は普段通りの口調で話しかける。
「そうだ、この後、克己と俺の部屋で話をするから。長くはかからないよ。終わったらそれぞれ自分の部屋で勉強する予定だから」
「そ。ほどほどになさいよ」
仕事の疲れを思い出したかのようにため息をつき、下がったトーンでそう言った後、母親はのろのろとリビングを出て行った。
「克己。先に部屋行ってっから。食べ終わったら来いよ」
「ん」
母親と話してから顔つきが変わった翔をいぶかしげに見ながら、克己は応えた。
「うーっす」
「うぃー」
克己は普段するようにベッドに飛び込まず、立ったまま翔を見据えた。
翔は自分の机でPCの画面を眺めながら手を動かしている。
「で。話って?」
「…………」
「呼び出しておいて無視かよ」
「氷上が、バンドやめるって」
「……なんで」
「親にダメって言われたらしい」
「母さんが、話してたことか」
「そうだ」
「知ってたのか」
「今日の朝本人からメールもらった。俺から優子や克己に伝えるようにって。悪いけど、優子へはお前が連絡してやってくれないか」
「説得はしたのか」
翔はPCの画面を見ながら、一切感情の混入していない無機質な声で、淡々と話す。
「しなかった」
「なんでだよ」
「無駄だから。氷上んちは、母親の権力が強い。氷上自身も、女手一つで育ててくれた母親に感謝していて、母親の言うことは最大限聞き入れたいんだって。その母親が禁止したんだから、もう俺たちからできることはない」
「氷上さんはこの結果に納得しているのか」
克己は、翔はが話し終わる度すぐに次の質問をぶつけている。
以前突っ立ったまま。しかしその声には、どっかりと座り込んで、腹の底から出しているかのような凄みがあった。
「納得してるからメール送ってきたんだろ。メール本文も丁寧でソツが無かった」
「んなわきゃねえだろうよ。今日の氷上さん見ただろ。授業中、いや、休み時間も、ずっと外を眺めてた。ずっとだぞ」
「よく、見てるな」
「翔の方がよく見てるくせに白々しいぞ。なあ、もういいだろ、こんなやりとり。オレは怒ってんだよ。直接言いに来ない無責任な氷上にも、止めようとしなかった翔にも、何も知らなかった自分にも。……いい加減こっち向け!」
しびれを切らした克己は、翔の肩をつかんで強引に振り向かせた。
糸の切れた操り人形のように、だらんと力なく翔の頭が垂れる。
「仕方ないんだ。どうにもならない現実ってやつだ」
今にも泣き出しそうな顔で、ぶつぶつと呟いている。
そんな翔を見て克己は思わず息が止まった。こんな弱った翔の姿を見たのはいつぶりだろう。
弱っている翔を追いつめるようなことは言いたくない。けど、ここで翔の心を動かす何かを言えなければ、翔はこの先、引きずってしまうだろう。
せっかく翔が、昔のような、積極的に人と関わろうとする面を取り戻しつつあったのに。
前に、翔と思いっきり言い合いをした時に、克己は気づいた。中三のあの事件以降、翔は自分自身を無理に押し込めていたのだと。自分や優子、そして氷上さんに接する時の態度は、限りなく素に近かったのだと。
翔は、教室にいる時は、克己たちと接している時とは似ても似つかないほど別人になってしまっている。多かれ少なかれ違う自分を演じるものだが、誰だって自分自身というものを希釈して演じている。
翔ほど自分自身の要素を排除してしまうのは、精神衛生状、良くないことだと思う。
自分や優子とは違う、完全な他人で何のつながりもなかった氷上さんと接することで、緩和されていくのではないかと克己は感じていた。自分だけのためじゃない。翔のためにも。
「ちげえだろ翔! お前が、どうしたいかだろ! 思い出せよ! 翔は自分がやりたいって思ったことにどんどんつっこんでくタチだろ!? 氷上さんの気持ちを予想して決めつけてんじゃねえよ! 他人の気持ちなんて完全に理解できるはずねえだろ! それはオレらが一番よく分かってるはずだろ!? 自分から近づくしかねえんだよ! 本当は、氷上さんとじっくり話し合いたいんだろ? 伝えたいことがあんだろ? 行けよ。翔が行かねえなら、オレが明日、学校で直接氷上さんを問いつめっぞ!」
翔の肩をつかみ、瞳をこれでもかとばかりにのぞきこみ、克己は声を張り上げた。
「……やめろ。氷上はそれを望まない。それははっきり分かる。教室で話しかけることだけはしちゃいけない」
依然、生気のないまま脱力している翔だったが、その言葉には明確な意思が宿っていた。
「なら、翔がやるしかないな。オレや優子じゃ、きっとプライベートで会おうとしても断られちまう。氷上さんと腹割って話せるのは翔しかいねえんだよ。頼むよ。バンド、やりたいよ。四人でやりたいよ。なんとかしてくれよ、兄さん……」
克己は一気に胸の内にためこんだものを吐き出したせいでバテてしまい、つい、弱い部分が出てしまった。
克己の大声を聞きつけた母親が向かってくる音がする。
うなだれた翔の目に、ひざをついた克己が映り込む。
「母さん! 今は、来ないでくれ! 何も問題ないから!」
声を張り上げたのは、翔だった。
声にのせられた気迫に圧されたのか、母親は何も言わず、引き返した。
翔は深呼吸し、克己の頭に、手をのせる。
「なんとか、しようとしてみせる。あくまで、しようとするだけだ」
「……頼りねえ」
克己が鼻をすする音だけが部屋に響く時間が、しばらく続いた。
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