第42話 チリ

 秋の日が沈み、家々から家族の夕食の灯りが点る頃、小熊とカブは自分の家に帰って来た。

 昼過ぎに試験場を出てから、午後の間ずっとカブで走っていた。

 今までは玄関灯一つの真っ暗な家に帰っていたが、今日は悪い意味で明るく賑やかだった。作業灯で照らされた庭で、春目とペイジが騒がしく動き回っている。

「おかえり、思ったより早かったね」

 ハンモックで寛いでいる竹千代は、小熊が今までどこに行っていたのかを知っているらしい。 

 小熊は庭先でライディングジャケットを脱ぎ、大窓越しに部屋の中に投げ入れながら言った。

「あんたが藜のために手回しした高校と働き先、雰囲気は悪くなかった」

 東京都下から神奈川を横断して静岡の沼津市まで往復。小熊にとってはカブのガソリンを使い切るほどでもない散歩程度の距離だったが、帰路は混雑した幹線道路でそれなりに急いだ。


 竹千代は三下の報告を聞くボスのように。ハンモックに身を委ねながら言った。

「不審や不備は無いが、不満があるといった感じだね」

 小熊は午後の間、藜が今後通うことになる沼津の定時制学園と、竹千代がコネを駆使して差配した住み込みの職場を、実際に自分の目で確かめに行った。

 夕方から授業の始まる定時制学園はちょうど登校の時間に重なったことで、生徒たちの顔を見ることが出来たが、とりあえず人生の末路って感じがしないことだけは確かめた。人を見る目にはさほど自信の無い自分が見ても、これ以上わかることは無いだろうと思い、藜の職場に行ってことにした。


 その店は学園から少し離れた、カブで通うのにちょうどいい距離の場所にあった。地価が高価そうな市街地にある真新しいビルの一階店舗。

 竹千代の話ではこの近辺に数棟のビルを持つオーナーが趣味でやっているという店は、アウトドア製品を扱う店舗らしかったが、派手なナイロンとチタンの製品で埋め尽くされたアウトドアショップとは毛色が違っていた。

 中で扱われているのは革やキャンバス布、鉄で作られた、トラディショナル・アウトドアグッズという奴で、カフェスペースのある店内には売り物のような、展示物のような感じで、往年の登山家が使っていたようなグッズが並んでいる。

 店主は老婆一人だが、それなりに客が入っていて、老婆は革の登山靴や真鍮のコンロを手に、ニコニコと笑いながら説明をしている。商売よりお喋りが好きそうな感じ。


 店の奥は座敷になっていて、藜はそこで寝泊りできるんだろう。

 お喋り好きの老婆はまだ腰は曲がっていないが、商品を扱う時にもお茶を淹れる時にも動きが鈍い。小熊の記憶ではアウトドアグッズについて詳しくない藜にも、ここなら何かしら役に立てることがありそうだと思った。

「女性客が多すぎる」

 竹千代は小熊の反応を楽しむような表情をしている。

「あのオババの占いとカフェスペースのお茶を目的に店に来る女の子は多い。藜君が店番をしていれば、きっと言い寄る女は多いぞ」

 小熊は竹千代との話を切り上げてペイジに声をかける。

「何を作ってるの?」

 ペイジはダッチオーブンと呼ばれる鋳鉄鍋の蓋を開けながら言う。

「あたしが作る物っつったらチリに決まってるじゃねーか」


 トマトと唐辛子で真っ赤になった豆の煮込みを見た小熊は言う。

「今日は辛くないほうがいい」

 ペイジは自分で作詞作曲したチリの歌を歌いながら返答した。

「ああいいぜ、あたしのチリはバッテリー液並みの辛口からマシュマロみたいな甘口までなんでもござれだ」

 藜がコンテナ物置から顔を出した。

「あの、マシュマロのほうでお願いします」

 ペイジがチリにトマトケチャップを一瓶全部ぶちこんでいる。小熊がコンテナ物置を覗きこむと、藜は中でカブの部品を整頓していた。

「見せて」

 藜はまだ身につけていた巾着袋から免許を取り出した。


 写真映りは悪くない。合格への祝いやねぎらいの言葉は特にかけなかった、最初から一回で合格するように言ってある。

 小熊が免許を返すと、藜は巾着から六万円少々の金を出した。小熊が渡した免許取得費用の余り。藜に雇われた小熊が受け取ることになっている金。

 小熊は、デニムジャケットのポケットから革製のガマ口財布を取り出した。

「あんたが働くことになる店で作った物よ」

 藜がこれから行く場所を自分で決めるなら、人だけでなくその仕事を見て、実際に手にしたほうがいいだろう。縫製が甘く底が抜けるような財布を作るようなとこなら、仕事の手を抜く。そういう場所は仕事だけでなく人使いにも手抜きをする。

「報酬はあとで貰う」

 そう言った小熊は現金をガマ口に入れ、そのまま藜に投げ渡した。


 自分が手放したトランクと同じ仔牛革で作られたガマ口財布をしばらく見つめていた藜は、ガマ口を開けて免許証を大事そうに入れ、パチンと閉じた。

 藜が礼を述べようとしたので、それを制するように小熊は藜に言った。

「店の客に誘われても、カブを笑うような女は相手にするな」

 藜は首を頷かせるべきか傾げるべきか迷ってる感じだった。小熊はただ、変な女だけは引っかかるなと言った積もりだが、小熊にとって相手がまっとうな価値判断が出来るかどうかの、最もわかりやすい基準は一つ。

 少なくともそのアンティーク・アウトドアショップの老婆は、小熊のカブを素敵な乗り物だと言ってくれた。おかげで機嫌をよくした小熊は、手作り財布を一つまんまとお買い上げさせられてしまった。

 ペイジが鋳鉄のダッチオーブンをカンカンと叩く。その音を合図にメキシカン・チリの夕食が始まった。


 藜のリクエストに応じて市販のカレーの辛口程度にスパイスを控えたチリ。当の藜はといえばまだ辛すぎたらしく、よく冷ましたチリを一口食べるたびに口を開けて舌を冷やしている。

 見た目から刺激物が苦手そうな春目は少し物足りなそう。そういえば以前、小熊がペイジのチリを食べた時は、一緒に飲んだお茶が唐辛子の味しかしなくなるほどの辛口で、さすがに作ったペイジ本人も辛そうな顔をしていたが、激辛のチリを延々と食べていた春目は危ない薬を体内に取り入れたような恍惚とした表情をしていた。

 小熊はチリに添えられたトウモロコシ粉のパン、コーンブレッドを手に取った。ペイジがチリを煮ている間に春目が焼いたもの。濃厚なチリとの対極的な調和を感じさせる白く柔らかいパンを食べながら、竹千代の横顔を見る。


 仏僧が粥を啜る姿に似た上品な仕草でチリを口に運んでいた竹千代は、スプーンを置いて小熊を見返す。小熊は竹千代に尋ねた。

「藜の行き先が決まってから聞こうとしたけど、あんたはなんで藜を助けるの?」

 竹千代はチリを一口食べてから、逡巡なく返答した。

「友人だからさ」

 小熊は澄ました顔の竹千代にスプーンを突きつける。

「そんな建前はいらない。あんたは藜に何を与えて、何を得ようとしている?」

 竹千代は小熊を見て、それから藜を見た。

「彼を助けることは、過去の私を助けることだ。彼は幾つかの選択肢で違った道を選んだ私自身の姿だ。君もそうだろう」

 小熊は頬張ったチリを飲み下す。唐辛子のおかげで体温が少し高くなった気がした。


「私は自分のカブを直すため。最初からそれだけで、他の理由は無い」

 竹千代は体を伸ばし、開け放たれたコンテナ物置の中、カブの廃棄部品の山を指しながら言う。

「これもかい?」

 小熊はひとつ溜め息をつきながら答える。

「引き受けちゃったからね。私は藜に雇われた」 

 竹千代は小熊にとっては非常に面白くない笑みを浮かべながら言う。

「この作業に関して、何か私達にお手伝いできることはあるかな?」

 これ以上係わられたらケチ臭い思考が伝染りそうだ。それに、本当に彼女たちの助けが必要な時には、この食えない部長はどこにでも現れて、何か用は無いかと聞いてくるに違いない。

「一つ、無いこともない」


 竹千代はチリを食べながら聞いている。頼みごとの目星をもう付けているといった態度。  

「今すぐ身柄を押さえて欲しい奴が居る」

 春目が暗くなっていく空を見て首を傾げる。何かに疑問を持っているのではなく、力は弱いが感覚の鋭敏なげっ歯類が耳を澄まして外敵の接近を探っているような仕草。

「たぶん探し回る必要は無いと思いますよ」

 遠くから近づいて来る音。小熊のカブに似ていて違う。数日前にも聞いた排気音が近づいてきた。

 ペイジがチリと最高の取り合わせだというメキシカンビールを抜きながら言った。ビールは帰路の運転のため春目に没収される。

「あたしのチリの匂いに惹かれて来やがったな」

 数日前、小熊のカブ修復を手伝うと約束しつつ姿を消した礼子が、彼女のハンターカブに乗ってやってきた。

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