第4話 そういう女
小熊にとってはまことに不快なことだが、幼い頃からよく母親似だと言われた。
他人が個々人を認識する基準となっている目元と鼻筋が似通っていて、身長も同じくらい。
父親に似ているのかはわからない。小熊が生まれて間もなく事故で死んでいる。母に聞いても父がどういう人間かを知ることが出来なかった。
口を閉ざしていたわけではない、ただ、小熊にとってこの母の言うことは、とても信じられぬものだった。
父について話すことも毎回内容が違う。どんな基準で話しているのかと思ったら、大概は前の日に見たドラマや映画に出てきた主人公と同じようなタイプ。
小熊が幼い時から抱いた母親のイメージは、不真面目で軽薄な、ヘラヘラした人といった印象だった。
高校に入った時、母はその見立てを裏切ることなく小熊を捨て、失踪宣言の紙切れ一枚を残して家から出て行った。
その日から始まった親無し生活の苦労は到底語り切れない。居ても役に立たない母親だけど、日本では未青年が何をするにも保護者の保証が必要になる。そのハンコを押す役だけを果たして、他に余計なことをしなければ、小熊はもっと楽に生きていけた。
今も小熊が何とか自力で賃貸した家の前で、母は娘との数年ぶりの再会に飛び上がって喜んでいる。こっちは今すぐ飛んで逃げていきたい気分。
「小熊!元気だった?しばらく見ない間にちょっとは女らしくなったのかな?髪、伸びたわね」
自転車を物置の前に置き、スーパーで買ってきた酢豚の紙箱を手に取った小熊は、玄関の前でぴょんぴょん跳ねている母を手で押しのけた。
「私はあんたに用は無い。家に入れるつもりも無い。帰るなら駅はあっち」
歩いて三十分ほどの南大沢駅とは逆方向。山越えで徒歩なら二時間はかかる町田駅を指差した小熊は、そこそこ平穏な生活への乱入者を無視して家に入ろうとした。
母は鍵を開ける小熊の肩に手を置いて言った。
「何で~?せっかく娘をやっと探し出して会いに来たのに~?久しぶりにお昼ご飯作ってあげるよ」
小熊がこの母を蹴りださなかったのは、蹴ったら粘土みたいに足にまとわりついて来て、服を汚しそうだと思ったから。しつこいセールスマンに絡まれた時によくこんな気持ちになる。
先日あやしい訪問販売業者が来た時はドアも開けず追い払ったが、この母はそういう強い拒否のタイミングを肩透かしで外すのだけは上手い。
点けっぱなしのラジオがクラシック番組を流す部屋に入った小熊は、勝手についてくる母を意識しないようにしながら、和室には不似合いな2by4材の手製テーブルに昼飯の紙箱を置いた。
冷蔵庫から取り出したポットの麦茶をグラスに注ぎ、桜漬のプラスティック瓶とワサビふりかけを取り出し、流しの横に洗って置いていた深い青紫色の釉薬に水玉模様の入った、耀変天目を模した丼を手に取った。
母は部屋の隅にあったキャンプチェアを勝手に出して小熊の向かいに置き、図々しく座りながら言った。
「お腹すいた~早く早く~」
さっきこの部屋に入るために吐いた言い訳をもう忘れている。
「ご飯は一人分しか無い。お腹が減ったなら外に出て、向こうに三十分くらい歩けば弁当屋がある」
母は小熊の声など聞こえてないかのように椅子から立ち上がり、炊飯器の中を勝手に開ける。小熊が明日の分まで炊いていたご飯を見た母は戸棚から予備の茶碗を二つ出して、勝手に盛り付ける。
小熊はもう目の前で行われてることについては無視することに決め、紙箱を開けた。
母が当たり前のように酢豚に手を伸ばしてくるので、小熊は紙箱を素早く引き寄せながら、さっき言ったことをもう一度繰り返した。
「一人分しか無い」
酢豚の紙箱を覗きこんだ母は「ちょっと貸して」と言って無遠慮に紙箱をひったくる。小熊が立ち上がって取りかえそうとするより早く台所に立った母は、コンロに火をつけてフライパンをかける。
料理をする母の後姿を見た小熊の動きが止まる。懐かしくなったのではなく、思い出したくも無いことを思い出したから。
母は何かの作業をしていても、話しかけられると平気でそっちに意識を切り替える。それが料理中で火や包丁を扱っている時も。小熊は幼い頃からそれで何度危ない思いをさせられたかわからない。
何とかこの母を止めて大事な昼飯を奪い返すタイミングを窺う小熊を尻目に、母は冷蔵庫にあった卵を全部ボウルに開けて箸でかき混ぜ、その中に酢豚を入れる。
更にひと混ぜした材料をフライパンに流し込み、醤油を足しながら箸でかき混ぜる。一通り卵に火が通った後、中身を大皿に移した。
小熊が次の特売までの消費量を考えながら、冷蔵庫にストックしていた卵を浪費し、ボリュームアップした卵とじ酢豚をテーブルに置いた母はニッコリ笑いながら言った。
「さ、食べましょ」
言われなくとも自分の金で買ってきた酢豚と卵、小熊も箸で摘んで一口食べる。自分で作れば美味しいであろう味。
母は卵とじ酢豚より小熊のほうを見ていた、その視線が煩わしいので、小熊はさっきから気になっていたことを聞いた。
「それ、誰?」
母の隣には、一人の男の子が居た。
存在感が希薄で、母と共に部屋に入ってきても、人が一人居るという感じがしない。部屋の中の物にも反応を示している様子が無い。生物としての実感に乏しい、ヒトの形をしたものがある。
母は何かの自慢をするかのように、そのヒトの肩を叩きながら言った。
「レイくんはね、小熊ちゃんの弟よ」
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