第5話 藜
目の前の少年が部屋に入ってきた時も、小熊は追い出したりする気にはならなかった。
好感を抱いたわけでも、知らない人に対して遠慮したのでもない。ただ、母に紹介されて、やっとそれが人間であることを意識した。
母より低い身長。つまり女子としては中背より少し低い小熊より小さい。皮膚も髪も瞳も全体的に色素が薄く、表情も乏しい。
小熊が止めようとしてもズカズカと部屋に入ってくる母の背後を、幽霊のように漂っている人間らしきもの。動きにも生命感というのが見られない。
小熊の頭の中には破線という言葉が思い浮かんだ。現在位置と目標とする座標がある時、小熊は常に二点を最短距離で結んだ定速の直線を意識し、もしも偏りや屈曲が発生したらそれが必要なものか、誤差の範囲として扱っても問題ないものなのかを疑い、検証することを心がけてきた。
小熊は自分が以前からそういう性格だったのかはわからなかった。ただ、スーパーカブに乗るようになってから。機械製品を扱う上ではそれが最善であることを知った。最も効率的な最短の直線を形にしたような乗り物に跨り、いじっていれば自ずとそうなる。
母はといえば小熊から見れば曲線の人だった。行かなきゃいけない場所、やらなきゃいけない事は分かっているのに、ちょっとした心変わりや目移り、風向き次第で行き先はあっちこっちに不安定な線を描き、今も食事中だというのに無駄で目障りな動きで忙しい。
この破線の少年は、直線と曲線の描かれた座標の中で、動線なのか印刷の汚れか、それとも誰かの線を描こうとしてインクが途切れたものなのかと思って見過ごしてしまう、途切れ途切れの微かな線。
目の前に置かれた茶碗と箸を生気の無い目で見ていた少年は、母に促されて茶碗を手に取り、小熊に礼の一つも言わず酢豚の卵とじを口に運び始めている。
服装は一昔前の小学生みたいなきついワイシャツに、大人用の裾を詰めたような大きすぎる半ズボンというチグハグなもの。
正直なところ小熊には少年よりも、彼の横に置かれている服装には不似合いな仔牛革のトランクのほうが存在感があった。
小熊が食事を済ませようとしている目の前で、母は無駄な動きを交えつつ、聞きたくも無い自分の話をした。その合間に少年についての説明らしき事もしている。
忙しく飯を食いながら喋り続ける様は小熊にとって、視覚的な有害物がこれほどまでに飯を不味くすることを気付かせてくれるものだった。
母は三年前に小熊を捨てて失踪して間もなく、東京である男性と再婚したらしい。籍を入れることの無い内縁の関係だったが、その男性には前妻との間の子が居て、それが目の前の少年。
母と内縁夫とその息子は、母の言葉を借りるなら都内で幸せな家族としての日々を過ごしていたという。ところが先日、男は突然家を出て、どこかに行ってしまった。
そっちの理由については小熊には何となく察しがつく。こんな女と暮らし続けられる人間が居るとすれば、それはストレスに痛んだり血を吐くような胃の無い奴に違いない。
あるいは、目の前に居る意志も感情も無いような人間未満のお人形。
母はこれから、サドゥーと言われる苦行僧に憧れてインドに行ったという男を追いかけるらしい。小熊はこういう事を真顔で言える母がもし人間でなく機械ならばどんな不良品だろうかと思った。真っ先に思いついたのは崖から落としたスーパーカブ。いやパーツを剥ぎ取る部品取り車に使えるだけ、壊れたカブのほうがずっとマシだろう。
母は小熊の頭では理解できない話を打ち切るように言った。
「だから、明日までだから。お母さんが小熊ちゃんと一緒に居られるのは明日の朝まで、ごめんね」
その言葉を聞いた時、小熊の中から感情の波が沸き起こってきた。物心ついた頃からの記憶、母がいた時の思い出。居なくなってからの暮らし。それらが混ざり合った気持ちが溢れてくる。
持っていた箸を落とした小熊は母に手を伸ばす。藜という少年が見ていることも構わず、小熊は子が親に求めるものを目の前の母に乞うた。
「明日じゃなく今すぐ出てけ、その前に有り金を全部ここに置いていけ」
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