第6話 現ナマ
小熊が母の財布から残らず巻き上げた金は五万円少々だった。
せめて帰りの電車賃くらいは残してやろうと思ったが、財布に入っていたクレジットカードが、結構ランクの高いものだということに気付いた小熊は、母がいつもスマホケースに入れているヘソクリの二万円も抜き取った。
有り金を全て奪われた母はアパートの床に崩れ落ちながら言う。
「小熊ちゃんひどいわ~、昔はお金のかからない良い子だったのに~」
小熊は母の存在を出来るだけ忘れるべく、食器の片付けと部屋の掃除を始める。合成樹脂の畳に掃除機をかけていると、部屋の中心に不快な障害物があって作業しにくい。
そこでやっと、小熊はもう一つの邪魔者の存在を思い出した。藜という少年。昼食前に母に座らされて以来、ずっとテーブル前のキャンピングチェアに座っている。
「そこをどいて」
テーブルに目を落とし、木目を眺めるように俯いていた少年が顔を上げる、小熊を見た。
小熊は音声に反応するオモチャのロボットを思い出した。カメラのような瞳で小熊を見た少年は、何も言わず椅子から立ち上がり、部屋の隅に歩いていった。そのまま壁際に立っている。
部屋の真ん中で寝転んでいた母が、少年に向かって言う。
「藜くん、楽にしてていいわよ」
藜という少年はその言葉を聞き、部屋の隅に座り込んだ。そのまま動くことなく、小熊でも母でもなく部屋の中心あたりに視線を向けている。
小熊はこの少年を、誰かの指示が無ければ動けない。指示されたことしか出来ない人間なんだろうかと思った。そんなことではこの世の中で生きていくことさえ難しいだろう。少なくとも小熊がカブに乗っている時には、自ら意志で判断し行動しないと、路上で生き残ることは出来ない。
どちらにせよ、この母を追い出せば一緒に片付くものなんだろう。
掃除を終えて、さほど内容の無い大学の教科書に目を通しているうちに午後の時間が過ぎた。その間ずっと母は寝ていて、藜という少年は部屋の隅で座り込んでいた。
真夏よりも少し早くなり始めた夕暮れが近づく頃、母は目を覚ますなり言った。
「お腹すいた~晩ご飯まだ~?」
今度こそ実力行使で部屋から追い出そうとする小熊の表情にも気付かない様子で、何かいいことを考えついたらしき母はスマホを取り出した。
片手にはいつのまにか手にしていた寿司デリバリーチェーンのパンフレットを持っている。
夕食の時間まで居座られてたまるかと思いつつ、小熊の頭の中に以前バイト先で思いがけず奢って貰えることになった寿司の味が再生された。
「あんたが払えよ」
母は空っぽの財布から出したカードを振りながら言った。
「もちろん!お母さんだもん」
言葉も仕草も小熊にとって非常に腹立たしいものだったが、とりあえず空腹で気が立ってるだけだろうと思い、面倒事を片付けるのは夕食の後にした。
これで一人でゆっくり食べられたらどんなに美味しかっただろうと思いながら、小熊は寿司を摘んだ。
向かいでは母がお茶を飲んでいる。まさか自分がこの母に茶を煎れることになるとは思わなかったが、寿司が来た時に支払いを小熊に押し付けようとした母親が、小熊に睨まれて渋々ながら自分のカードで払ったので、寿司代だと思って水道水じゃなくお茶を出した。
少年は相変わらず母に言われた通りのことしかしない。座ってと言われたら座り、母に食べるよう促されて寿司を食べている。スチロールの大皿に並んだネタを好き嫌いに合わせて選んでいる様子は無い、ただ手を伸ばして触れたものを食べているような感じ。
夕食を終えた後、結局押し切られるような形で、小熊は母と少年を部屋に泊めることにした。東京でも町田中北部のこの辺りは、バスの運行終了が早い。
すっかり気疲れして早く眠りたかった小熊は、母にシュラフを投げ渡す。母は「寝袋で寝るなんて初めて~」と言っていたが、小熊にとってはカブで泊りがけのツーリングに行く時の実用品。
そこでももう一人居ることを思い出し。部屋を見回した小熊は少年に毛布を投げる、やっと熱帯夜から開放されたくらいの気候なので、これで充分だろう。
しばらく足元に落ちた毛布を眺めていた少年は、床に横になって毛布を体に巻きつけ始めた。
部屋の灯りを消し、ようやく眠れると思った頃、もう寝たと思った母が話しかけてきた。
「小熊、ごめんね」
何に対する謝罪なのか、思い当たることが多すぎてわからない。とりあえず小熊は明瞭な回答をした。
「そう思うなら早く出ていって」
小熊の言葉を都合よく聞き流したらしき母は、小熊にとってはインチキ臭さしか感じられない殊勝な声で呟いた。
「お母さんが居なくなってから、大変だった?」
この母は最低な人間だけど、それだけに偽りや建前を抜きに喋ることができる。
「あんたが居た頃ほど大変じゃなかった」
母は自分のドラマに出てくる母親のゴッコ遊びみたいな真似に自己満足したのか、くすくす笑いながら言う。
「とりあえずあれだけのお金があれば、しばらくは何とかなるわね」
そんなわけ無い。東京で一人暮らしをしていれば金は出て行くし、今日貰った金額なんて慎ましい奨学金暮らしでは焼け石に水。大学の長い夏休みにはカブを使ったバイトにも励んだが、山梨から来た小熊にとって耐え難い南関東の夏を乗り切るエアコンや冷蔵庫、それからカブの工具と消耗部品で使ってしまった。
もうこれ以上母の話を聞きたくないと思った小熊は寝返りを打つ。窓越しにコンテナ物置が目に入った。あの中には大破し、直す当てもないカブがある。
その時、小熊は母から分捕り、今は奪い返されぬよう枕の下に突っ込んでいる現金のことを思い出した。もう一度物置を見る。
「何とかなるかもしれない」
母はもう寝ていた。
翌朝、小熊が目を覚ますと母は姿を消していた。
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