第7話 八方塞り

 部屋を見回し、盗まれたり持ち去られたりした物が無いことを確かめた小熊は、とりあえず面倒事が一つ片付いたことに安堵した。

 広くなった部屋で体を伸ばし、ラジオを点けた小熊は、デニムパンツとTシャツのまま寝てしまったことに気付いた。 

 デニムには先日の転倒で膝と尻ポケットに傷が出来たけど、それは後で直せばいいだろうと思った。大学の教授にはデニムにお洒落じゃなく実用で継ぎを当てている人を見たのは数十年ぶりだと言われた。

 晴天だが昨日ほど残暑厳しく無い様子なので朝のシャワーを省略し、冷蔵庫横の戸棚からオートミールの箱を出した。小ぶりなアルミ製ドンブリにワイヤーの持ち手がついたシェラカップに開けて水を注ぎ、コンロの火にかける。醤油とカツオ節を入れた。


 小熊は沸騰する寸前まで温めるだけで出来上がるオートミールとリンゴジュースの朝食をテーブルに置いた。

 ラジオでFMを聞きながらオートミールを口に運んだ小熊は、もう一つの問題事について考えることにした。大破したスーパーカブ。あれをどうにかしなくてはいけない。

 通学も買い物も今のところ自転車で何とかなる。でも、丘陵の多い町田市で広い範囲を動くにはカブが必要で、何より小熊にとってスーパーカブの無い暮らしは満たされた生活とは言えない。


 昨日母から分捕った現金は七万円少々。これではカブを買い換えるには心もとない。オークション等を探せばその値段で出ていないこともないけど、それがどれほどの物なのかはわからないし、買い換えれば廃車や登録にもそれなりの費用がかかる。それなら今のカブを直すかと思った。カブの整備、修理とは高校時代それなりに付き合ってきた。それがどれだけ困難かについては、よくよく知っていた。

 部品と整備ノウハウの供給には問題の無いカブ。技術もプロ並みの自信があるわけではないが、今までやってきた事の組み合わせで出来なくもないと思う。でも、大学とバイトの合間を縫ってカブの本格的整備を行う上で、女子の力では困難な作業は数多くある。


 生活の困難を乗り越えたようでいて、結局のところ八方塞り。オートミールの最後の一口をレンゲで啜りつつ、窓越しにコンテナ物置を見た。とりあえず、自分の周りを囲い動きを阻む壁。その中で一番薄いものを選んで蹴破らなくてはいけない。

 そこで小熊は、母のこと、続いてカブのことで一杯になった思考の中で意識していなかったものに気付いた。

「なんでそこに居るの?」

 部屋の隅。夕べと同じ格好で毛布に包まったまま中空を見つめていた、生きているのか死んでいるのかわからないものが小熊を見た。

 母が連れてきた内縁夫の子供、藜という少年は、この部屋に来て初めて口を開いた。

「ぼくはどうしたらいいんでしょうか」

 朝食を終え使用済みの食器を片付けた小熊は、母が食い散らかしていったパンや菓子類の空き袋をゴミ箱に捨てるべく拾い集める。それらに向ける視線と同じような目で少年を見た。

「出て行きなさい」


 少年は、小熊に言われた通り出て行くためか部屋の隅から立ち上がり、玄関前まで歩いていった。

 小熊は一晩泊めてやった自分に礼の一つも無く、毛布を借りておいてそれを畳むことすらしない少年を張り倒したくなったが、とりあえず今は平穏な生活への侵入者を一刻も早く排除することを優先した。

 怒りは人に対して湧くもの。叱るのはその人間との関係構築という前提あってのこと。小熊は目の前の少年にはいずれの感情も抱いていない。母という厄介なインベーダーの残りカスのようなものだと思っていた。

 ワイシャツにズボンのまま眠ったらしき少年は、仔牛革のトランクを手に取る。玄関に立った少年は、彼のものらしき靴を手に取る。服にも持ち物にも似合わぬ旧い黒革の安全靴。どこかチャップリンのドタ靴のように見える。

 少年は重そうに玄関を開けた。チグハグな服を着てボロ靴を履き、高価そうなトランク一つを手に、小熊の言いなりに一人で外に出ようとした藜という少年は、外の風景を見て空気を吸い、秋の始まりの気候に少し身を震わせていた。

 そのまま足を動かそうとしない藜という少年は、小熊を振り返った。

「ぼくは、ぼくはどこに行けばいいんでしょうか」


 小熊は掃除の手を止めることは無かった。街で見かける数多くの人たちには各々の行き先がある、他人の行き先など誰にもわからない。小熊の口から「知らない」という返答が出そうになったが、一度口を噤んだ小熊は、少年に向き直った。

「家に帰りなさい、家族のところに」

 まるで革の安全靴がこの少年には重すぎるかのように、玄関前に立っていた少年は、小熊を見て言った。

「家はありません。家族は居ません」

 小熊はこの少年に父親が居るということを母から聞いた。その母だって内縁の関係とはいえ少年の母にもなる。しかし少年を放置して海外に飛んだというなら、それは居ないと同じことだろう。


「親以外の身寄りは?」

 小熊が聞いたのは、児童福祉関係の人間が親に捨てられた子供に真っ先に聞くこと。彼らは児童の保護にとても熱心だが、自分の仕事を押し付けられる相手を探す時にはもっと熱心になる。

「居ません」

 少年は手にしていたトランクに目を落とす。それが天涯孤独な少年に残された家族であるかのように見えた小熊は、以前の自分にとても似た境遇の少年に、喜捨の気分で少々の優しさをくれてやった。

「この道を三十分くらい歩けば交番がある。そこで公共の保護を受けなさい」 

 少年は重い靴を動かして外に足を踏み出した。開けっ放しの玄関から藜の後姿が見える。

 主にあの母と関係のある人間という理由で、非常に目障りな物を視界から消すべく玄関を閉めようとした小熊に、少年は振り返りながら声を出した。

「警察に行ったら僕はどうなるんですか?」

「知らない。私は福祉には詳しくない」

 小熊は玄関を締め、鍵をかけた。

 

 とりあえず母の問題を、その残滓のようなものも含めて綺麗に片付けた小熊は、もう一つの問題について思案することにした。

 トラブルの解決はまず、目の前に見えているもの、わかっている事、しなくてはいけない行動を精査することから。スーパーカブを必要としている小熊の暮らし。現状として存在するのは、大破したカブと少々の現金。

 この金でカブを直すか買い換えるか。買い替えには現状で可処分な金が足りず、直すには小熊が費やすことの出来る労力が足りない。

 結局のところ解決の糸口はまだ見えない。いっそ頭金はあるんだし、無茶なローンでも組もうという悪魔の囁きさえ聞こえてくる。

 迷った時は情報の再検討。とりあえず小熊は、午後から大学に行くまでの暇な時間に、今まで見たくなかったカブをもう一度よく見て、損傷の度合いを確かめようと思った。  

 サンダルを履いて玄関を開けた小熊は、コンテナ物置へと歩き出そうとした。その時、足が何かに躓いて転びそうになる。


 天使は清しき家に舞い降りる、という言葉に従い、日々住処の整頓を心がけている小熊は玄関前を散らかした覚えは無い。唯一の心当たりは玄関から敷地を出てすぐの場所に蹲っていた。

「早くここから立ち去りなさい。じゃないと不審者として警察に通報する」

 地面に置かれたトランクの上に座り込んでいた少年は、小熊を見上げて言った。

「僕は児相には行きたくありません」

 小熊は気付いた。この何も知らないような少年は、過去に公共の保護を受けたことがある。


 小熊が十六歳で母に捨てられた時、今後の相談をすることとなった山梨県の福祉担当者や児童相談所の職員は幸いにも比較的親身になってくれた。しかしそうでない事も噂話程度には聞いたことはある。

 この少年もきっと、福祉という人生で重要な意味を持つクジ引きで随分な不運に見舞われたんだろう。小熊は自分がまぁまぁの当たりクジを引いた裏で、外れを引かされたらしき少年に言った。

「私には関係ない。行きたくなくても行かなければ野垂れ死ぬ」

 トランクに座り込んだ少年は、小熊の家の前から伸びる市道を眺めた。小熊には彼の感情に乏しい瞳が、絞首台の十三階段を見るような目をしているように思えた。

 一度立ち上がろうとした少年はまた座り込む。階段を登って縊り殺されるよりも、飢えて死ぬことを選んだだろうと思った小熊はコンテナ物置のドアを開け、意識をカブの問題に切り替えた。

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