第8話 ボロ靴とトランク

 見ないようにしていたスーパーカブは、改めて見てみるとやはりひどい状態だった。

 足回りのリムとアーム類が大きく変形しているのは、転倒した直後に確かめたが。修正、補修して使えるんじゃないかという希望は現物を見て打ち砕かれた。

 樹脂製の部品に関してはほぼ全滅といった感じだった、外装も灯火も全て割れるか失われるかしている。

 車体装備品がこんな具合なら、何とか回ったエンジンや堅牢なことで知られるフレームも無傷かどうか怪しいだろう。

 小熊が行った修理修復の手順を確認するための現車確認。取り替えなくてはいけないと思われる部品は、全て。

 

 小熊の手持ちは母から毟り取った七万円少々の現金と、素人よりはマシな整備経験。大学の講義とバイトの間を縫って確保しなくてはいけない時間。

 どれも足りないなりに工面と工夫を重ねれば何とかなるレベル。どうにもならないのは労力の問題だった。

 今までの経験で、部分的な整備だって女子の力ではそれなりの労働になることは知っている。小熊にとっては自分の暮らしを支えた大切なカブだけど、そのカブの面倒を見るために生活を犠牲にするわけにはいかない。無償で手伝ってくれるような都合のいい友達の宛ても今は無い。

 バイクの部品は買えばいい。流通の多いカブの部品なら、コネを辿れば結構なパーツをタダでくれたりもするし、時にゴミ捨て場に落ちていることさえある。しかし整備をする上で最も入手困難な部材にして、一番高価な工具と言われる人の手だけはどうにもならない。

 どうにも出口の見えない状態。せっかく母の襲来という問題事が片付いたのに。小熊は手のつけられぬカブから目をそむけるように、開け放たれたコンテナ物置の入り口から外を見た。


 ついさっき小熊が追い出した少年が、門前でトランクに腰かけたまま目の前の道路を眺めている。

 小熊は他人に等しい少年に、親切心で交番の場所だけは教えてやった。家の前の市道を北へ歩けば三十分ほどで着ける。そこに行けば公共の保護を受けられるだろう。

 たとえ少年が何かしらの理由で、児童福祉に関する部署に行くことを拒んでいても。

 死ぬのがいやなら生きるための選択をしなくてはいけない。それが最低の生き方だったとしても、そこから始めなくてはいけない。小熊はその最低の蘇生方法さえ見つからぬスーパーカブを爪先で蹴った。

 少年は腰かけていたトランクから立ち上がる。小さいワイシャツに大きいズボン、細い足に重い安全靴といったチグハグな格好をした少年は、トランクを手に歩き始めた。

「そっちは墓場だよ」

 南へと歩き出した少年は、後ろから話しかけた小熊の声を聞いて振り返った。


 その方角にあるのは、山林と広大な総合斎場。

 小熊を含め、地元のバイク乗りにとってはワインディングロードとしての知名度のほうが高い火葬場の山を越えれば、隣市に抜けられるが、この少年の足では何時間かかるかわからない。

 小熊を見た少年は、何も言わず目をそらし、過去に何か耐え難いことがあったらしき公共機関の方角をもう一度見た。

 少年はそこから逃れるように反対方向へ、人生が終わる場所に向かって歩き出した。

 小熊にはこの少年が何を考えているのかがわからなかった、ただ、何も考えられない状態に近いことだけはわかった。

 早足で少年を追った小熊は、トランクの端を摘んだ。少年はつんのめり、転びそうになる。

「どこにも行くところが無いなら、生きる方法を一つ教えてあげる」

 少年は小熊を振り返る。地獄への一本道で何かに出会った顔。鬼でも神様でもない、これから同じ地獄に落ちる他人を見たような、無関心とひとかけらの興味の間を往復するような目。

 小熊は少年の手を引き、物置の前まで連れていく。

「あなたが私を手伝うなら、直るまでは死なない程度の暮らしをさせてあげる」

 修理しなくてはいけないカブ。部品や工具や人手など、足りないものが多すぎる。

 ならば落ちてるものを拾えばいい。


 少年は小熊に手を引かれるまま、コンテナ物置の中に入ってきた。

 提案に従うことを了承したというより、誰かに何かをしろと言われた時に、疑ったり抗ったりするという行動パターンを持っていないような感じ。 

 この父に捨てられた少年は、今まであの図々しい母のおかげで何とか生きていけたんだろう、その母はもう居ない。身勝手な理由で姿を消した。小熊が蹴り出したという側面もある。 

 もし彼が公共の福祉を拒むことなく、言われた通り駅前の交番にでも向かったとして、そこから出会う人全てがいい人とは限らないし、血税から給与を貰ってることに腹が立つほど職務怠慢な人間は小熊だって見たことがある。

 書類は受理するし仕事は処理する、ただしその過程で終始高圧的な言動と態度を示し、保護を必要としている人間が自ら申請を取り下げる方向へ唆すような人間は確かに存在し、それを原因とした悲劇は日常的に起きている。

 もしかしたら彼はそこまで行くことさえ叶わず、街にいくらでも居る悪い人間に捕獲され、利用されるかもしれない。

 たとえば、身寄りが無く生きていく意志と能力に乏しい少年を、生命の危機を盾に自分のために働かせようとしている小熊のように。

 とりあえず小熊は、人の世で生きていくには弱すぎる少年から自分自身の利益を搾り取るべく、自らの考えを説明し始めた。


「私があなたに求めるのは、これの修復を手伝うこと」

 小熊は自分のカブを手で示す。少年は小熊に視線を誘導されるように、大破したカブを見つめた。小熊はこの少年がこれを何だと思っているのか気になったが、とりあえず反応を窺う。

「僕はオートバイの修理なんて出来ません」

 どうやら目の前にあるスクラップをバイクだったものと認識してくれたらしい。小熊は説明を続けた。

「あなたにそんな物は求めていない。技術の必要な作業は私がやる。あなたがやらなきゃいけないのは、私の手足に、道具になること。工具に脳ミソはいらない」

 少年は視線を下げ自分の体を見下ろした。自分が誰かの役に立つことが信じられないといった様子。少しの間自分のヘソを見ていた藜は、身体が空腹を訴えていることに気付いた。

 精神的に追い詰められ、判断能力が低下していた少年は、生命の危機を感じ更に思考が逼迫する。動物がとりあえず目の前にある食べ物を取ろうとするように、顔を上げて小熊を見た。


 小熊は彼が了承したと判断した。口頭で意志を示すのを待っていたら日が暮れる。

「私はこのカブを直す間、あなたには生活に必要なものを与える。その間に自分がどうするかを考えればいい」

 家畜のような疑いの無い目、この少年は自分以外の人間全てをそんな目で見るんだろうかと思った。小熊は自分自身の汚さや卑しさを再確認させられるような瞳を見て、彼に辛い目に遭わせた児童相談所の職員の気持ちが少しわかった。

「お姉さんは僕を助けてくれる、約束してくれるんですか?」

 小熊は頷いて自分の部屋に入り、この少年に与える餌と飼育道具を漁り始めた。 

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