第28話 絆
修復作業は四日目にして、まずまずの進捗を見せた。
電装回りの作業は終わり。後は吸排気の部品を取り付ければ、エンジンを始動させることも出来る。作業行程はようやく半ばを過ぎたという辺り。
作業の終了を告げられ、さっそく後片付けを始める藜に、小熊はもう一つ指示をした。
「今日の夕食は部屋で食べなさい」
藜が小熊を見上げ、コンテナ物置の隅に置かれていた飯盒をチラっと見た。藜は昼に炊いたご飯を半分残していて、夜はこれを食べる積もりでいた
「食事を出すとは言ってない。自分の食べるものは自分で持ってきて」
藜は少し安心したような顔をした。藜がこのコンテナ物置に住み始めてからの食生活は、昼に二合の米を炊き。昼と夜で分けて食べている。朝食をあまり多くは食べられない藜にとって、メスティン飯盒の底に残ったご飯のお茶漬けはちょうどいい分量。
ここで小熊から夕食を提供されれば、その順番が一つ先倒しになる。彼自身のバランスとペースが乱れる。
藜がここに来て得た、安定した生活。他人頼りの安定は、カブの修復を終えた時に終了する。
藜は小熊の家に入る前に作業で汗をかいた体を綺麗にすべく、シャワーを外水道に繋いだ。
小熊が部屋でシャワーを浴び、夕飯の支度をしていると、藜が窓をノックして入ってくる。今夜は小熊の夕食も炊飯器で炊いたご飯とレトルトフードだった。藜に合わせようと思ったわけではなかったが、今日は作業の進みが良くて食事を準備している暇が無かった。
テーブルに向かい合わせで座った小熊と藜は、各々の夕食を準備する。小熊は温かいご飯と炊飯器の上に乗せて温めた牛丼。藜は冷えたご飯とレトルトの鶏丼。
小熊は自分と藜のカップに麦茶を注いだ。藜は小声でお茶の礼を言ったが、夕飯には手をつけようとしない。小熊もまだ食べるには熱い牛丼をテーブルに置いたまま。
藜は小熊が何か大事な話をしようとしている事に気付いていた。小熊はお茶を一口飲んでから言う。
「あなたはこれからどうするの?」
藜は俯いた。数日前、彼が途方に暮れていた時にもよく見た仕草。あの時は何もわからず、何も答えられなかった。小熊には目の前の彼が、あの時の藜とは違うことだけはわかった。
小熊は自分の丼を手に取りながら言った。
「食べながらでいい」
そう言いながら自分の牛丼を箸で摘み、一口頬張る。まだ熱い。向かいでは藜が冷え切った鶏丼を口に押し込んでいる。
冷たいご飯をよく噛み、飲み下した藜は、目の前の食事に視線を落としながら話し始めた。
「自転車で、部品を買いにいった時、働いている人がたくさん居ました」
小熊も何度か気付いたこと。昼間の街で見かける人のほとんどは、自分の仕事をしている。道中見かける車や、雑居ビルの窓越しに見える事務所の中、稼動している工場。藜の行った部販もまた、人が働く場だった。
「人は働かないと生きていけないんですね」
冷蔵庫から漬物の瓶を取り出した小熊は、蓋をあけて小皿に取り、ひとつ食べながら答えた。
「そう。残念なことに」
小熊は十六で母に逃げられて以来、生活や学費を奨学金給付で賄っているが、最低限の生活費以上のものを手に入れるため、暇さえあればバイトをしている。
お茶を一口飲んだ藜に、小熊は漬物の小皿を押しやる。藜は大根の桜漬を一つ取り、音をたてて噛んでから再び話し始める。
「働けば、生きいてもいいんですよね」
小熊は席を立った。部屋の大窓を開けて庭に降り、数歩の距離にあるコンテナ物置に入る。中に置いてあったトランクを持って部屋に戻った。
藜が肌身離すことのなかった仔牛革のトランクを、小熊が勝手に持っているのを見た藜は、何か言うべきかどうか迷っているような目をしている。小熊は構わずトランクを開き、中に入っていたファイルケースを取り出した。
小熊が数日前、山梨に部品取り車を買いに行った帰りに、母校で貰っていた奨学金の書類。小熊自身が貸与を受け、無利子ながら纏まった借金を負いつつ、高校を卒業し大学に進学した。
小熊はテーブルの上に書類を置きながら言う。
「あなたに必要なのは、今働くことじゃなく将来人並みに働けるだけの基盤を整えること」
藜は書類を手にした。彼が書類を読み返したのは、小熊がファイルケースに入れた時と順番が違うのを見ればわかる。
「この奨学金を受けるには、児童相談所に行って、紹介をしてもらわないといけないんですよね」
小熊は頷いた。とはいえ小熊自身あまり覚えていない。あの頃はただ母が居なくなったという事実に混乱し、学校の教務課と相談した結果、最善と言われた行き先を順繰りに回っただけだった。
「そう、あなたがこの奨学金を受けるには、児相に行ってあなたが親の保護を受けられない状態だということを公的に証明しなくてはいけない」
藜は俯いていた顔を上げる。その目には涙が溜まっていた。
「僕は児相には行きたくありません」
小熊が彼を追い出そうとした時に言った言葉を繰り返した。あの時と違うのは、その言葉の真意を語ろうとしていること。
「児相は父を否定しました。父が親権者として不適格だということをと認めなくてはいけないと言いました」
藜の父がしたことは、彼がそれをどう思っていたとしてもネグレクトと呼ばれる育児放棄の虐待行為。
親子虐待やDVの被害者に対するカウンセリングの基本に、今までの暮らしの否定というものがあるらしいということは、小熊も親に逃げられ奨学金を給付された時に知った。
小熊が児相の職員に同じようなことを言われた時は、その通りごもっともと同意した記憶がある。正直なところどうでもいい話を早く終わらせて、お金の手続きを始めて欲しかった。
藜は箸を握り締めながら泣いていた。客観的には見れば子供を内縁の女に押し付け、勝手に海外に逃げた最低の父親、でも父を否定し、肉親と離れるということは、自分自身の出自を失うということ。小熊が早々に切った物に目の前の少年は縋りついていた。小熊が失ってしまった物を、藜は自分の中に強く残していた。
小熊は藜の横に置いてあるトランクを指差す。
「それ、お父さんに貰ったの?」
藜は泣いてしまったことを恥じるように、ジャージの袖で目を拭いながら頷く。何も無い少年が持っていた、唯一の絆。
握り締めていた箸を持ち直し、藜がもう一度鶏丼を食べ始めたのを見て、小熊も食事を再開する。箸の持ち方を見ながら、その父親には良い親だった時もあったのかもしれないと思った。
「私は自分のカブを直すことを最優先に考えている。カブ修復の作業が終わった後、あなたがどこに行き、どこで死のうが関係ない」
藜は食事を続けている。小熊の言葉を無視しているのではなく、今だけ許された命を出来るだけ長引かせるべく、今食べられるものを押し込んでいる。
「あなたはあと数日で、自分がこれからどうするのかを自分で調べ、決めなくてはいけない」
藜は顔を上げて小熊を見る。自分の行き先を調べ、決めるといっても、目の前にあるのは小熊が渡した奨学金の資料だけ。どこに行ってもいいといって一つの逃げ場しか用意しない。藜が今まで何度も見た大人たち。
牛丼を食べ終えた小熊はお茶を飲み、それから藜に言った。
「私は明日、大学に行く。その間あなたが調べ物をするのは構わない。大学の図書館なら大概のものが見られる」
藜が小熊を見る目が、少し変わった。
牛丼を食べ終え、食器を片付けた小熊は洗い物をしながらスマホを取り出した。ある連絡先に電話をかける。
「やあ」
鼻につく応対は、小熊の通う大学の節約研究会、通称セッケンの竹千代部長。
「明日、藜を大学に連れていく。勝手にちょっかいを出さないように」
しばしば部室に泊り込み、夜は出所の怪しい酒を飲んでいることの多い竹千代は、普段に増して人を食った口調。
「行き帰りの足が不便だろう?明朝うちの者に迎えに行かせるよ」
小熊は「いらない」と言って電話を切った。
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