第29話 方違え
やっぱりというか、翌朝、小熊の家までセッケンの軽バンが迎えに来た。
運転しているのはペイジ。小熊など居ないかのようにコンテナ物置に入り、中に居た藜に声をかける。
「ようレイちゃん、飯は食ったか?」
「はい、今お茶漬けを食べました」
ペイジはこの季節に着ていると馬鹿にしか見えないレザージャケットのポケットを探りながら言った。
「あいつそんな物しか食わせてねぇのか。これ食え、美味いぞ」
ペイジから差し出された月餅を受け取り、深く頭を下げた藜は言う。
「ここでは僕にとって一番いいものを食べさせてもらっています」
庭に面した大窓からやりとりを見ていた小熊は、あの月餅はうっかり受け取ると後で高価くつくんじゃないかと思った。
玄関から外に出た小熊は、ペイジを無視して勝手に軽バンの前席に乗り込もうとした。
「小熊さん、こっちこっち」
軽バンの後席に春目が乗っていた。
小熊より二つ上の三年生なのに、胸の前に保温ポットを持っている姿は、大学生には見えない。
ポットの蓋を外した春目は、中身をカップに注いで湯気の出る液体を小熊に差し出す。ウイキョウかタイムのような芳香。
「あの、お茶飲みますか?」
後席に座った小熊は春目に頷き、お茶を受け取りながら、今時は業務車でしか見かけない手回しの窓を開ける。
コンテナ物置の中では、さっきから藜にまとわりついていたペイジが、物置の隅に置かれたエンジンを見ていた。
「レイコが来てたのか」
小熊は軽バンの窓から顔を出して答える。
「カブの修復を手伝わせるために家に泊めた。二日で逃げた」
小熊のカブに積まれたエンジンと、礼子が修復した寿命千kmのエンジンを見比べていたペイジは言った。
「あいつは自分が居るべきところにしか居ない奴だから」
小熊にはペイジの言ってることがわからなかったが、事実として礼子が居なくとも、カブの修復は順調に進み、もう完成が見えてきた。
一つ頷いたペイジは藜の手を引き、軽バンの助手席に招いた。藜のためにドアを開けてあげる仕草は、藜より背の低い彼女の体格では様にならない。
前席に座る藜とペイジを眺めながら、小熊は春目に淹れてもらったお茶を一口飲む。
「美味しい」
春目が嬉しそうに身をよじらせる。
「気に入ってもらえて嬉しいです、火葬場の裏に生えてる熊笹で淹れたお茶なんです」
この少女の頭には、自分に必要なものを金を払って買うと言う選択肢はあまり無い。欲しいもの、必要なものは拾い、摘み、あるいは狩る。
小熊は熊笹のお茶をもう一口飲み、前席でペイジにあれこれと話しかけられて少し困惑している様子の藜に言った。
「役に立つかもしれない、あなたも覚えておいたほうがいい」
小熊がお茶のポットを指差すと、春目はすぐさまもう一杯のお茶を淹れ、後席から藜に手渡す。最初は藜のことを警戒していた春目は、彼の境遇を聞いて以来、同じ苦しみを分かち合う者と勝手に決めつけ、同情的な対応をしている。
お茶を受け取った藜が礼を言う。春目はカップごと藜の手を自分の手で包みながら言った。
「後で食べられる野草、お茶に出来る野草のことを教えてあげるね」
ペイジが軽トラのエンジンを始動させ、ギアを一速に入れてクラッチを繋ぐ。軽バンは静かに動き出した。
セッケンが駐車場として勝手に占拠している焼却炉裏に停められた軽バンから出た小熊は、セッケンの二人には特に礼を言うことはせず、前席から降りてペイジと春目に馬鹿丁寧に頭を下げている藜に話しかけた。
「私は午後三時まで講義に出る。その間あなたは図書館で調べ物が出来る。時間を大事にするように」
藜は少し緊張した様子で頷く。数日前に小熊が講義に出た時にも同じように大学図書館で待たせたが、時間潰しを兼ねてバイク雑誌を読ませたあの時とは違う。
藜はこれから、自分の行く先についての答えを探し出さなくてはいけない。小熊に出来るのは、本人がやろうと思えばそれが出来る場所に連れて行くことだけ。
軽バンを降りたペイジが、藜の肩に手を回しながら言った。
「心配すんなって、変な女にちょっかい出されないように、あたしがしっかり見ててやるからさ」
春目もペイジとは反対側に歩み寄り、藜の腕を掴みなら言う。
「小熊さんの大切な人がより良い進路を見つけられるよう、出来る限りのお手伝いをさせて頂きます!」
小熊はペイジと春目の手を払い、それからペイジに顔を寄せて言った。
「私はあんたらの部長に言った、手を出すなと」
ペイジが誤魔化すように笑いながら数歩後ずさった。
「お、怒んなよ小熊ちゃ~ん、あたしは別にこの可愛い男の子に悪い事をしようなんて思ってないし」
小熊はさっきからセッケンの二人に世話を焼かれつつ、なんだか逮捕されたような顔をしている藜が、不必要に体に触れられることを苦手としていることをやんわりと伝えようとしたのだが、自分が思ってたより怖い顔をしていたらしい。
とりあえず講義開始の時間が迫っていたので、小熊は教室に向かうことにした。その前に一つだけ確認した。
「昼食は」
さっきから居心地悪そうな顔をしていた藜が、初めて自信を窺える顔を見せた。
「持ってきています」
今日も貰い物のジャージ上下を着ている藜は、小熊から借りた巾着袋を背にたすき掛けしていた。
人間は食べるものさえあれば生きていける。とりあえず彼の左右に居る連中のような、身に降りかかる災厄は自分で何とかさせる事にして、小熊は講堂へと向かった。
スマホで時間割を見ながら中央講堂に入ろうとした小熊は、出入り口で厄介な奴と出会った。
長身美麗。服装に気を使う人間の少ない公立大学にしては珍しく、秋の七草をあしらったらしき精緻な刺繍の入った上等な布地のワンピースドレスを着た女。
小熊は目の前の女を見ないようにしながら通り過ぎようとしたが、女は無遠慮に話しかけてくる。
「我がセッケンのお迎えは気に入ってもらえたかな?」
例の如くどこかのゴミ捨て場から拾った古着を仕立て直した服を着た、セッケン部長の竹千代の声を聞き、小熊は足を止めた。
「乗っている奴以外はね」
形はどうあれガソリンを消費し軽バンで送って貰い、小熊と藜のバス代を節約させてくれた事には変わりない。
小熊はそれらの代償として、秋の学園祭の間だけセッケンに籍を置くことを約束しているが、それが正当な対価かどうかはわからない。 この部長の得体の知れぬコネを用いれば、小熊の替わりなどいくらでも引っ張って来られるだろう。
竹千代はいつも小熊に会うと、呼び止めることも進路を塞ぐこともせず引き止め、足を止めさせる。この女の持っている雰囲気というべきか、彼女から何かを得られるんじゃないかという予感では無い。今聞いておかないと後でとんでもない事態になるんじゃないかという危機感から、ついもう少し話を聞こうという気分になる。
小熊は竹千代が自ら旨としている節約と節制を守るため、随分多くの人間を騙し、誤魔化していると伝え聞いていたが、もしかして自分もあの二人の部員のように、彼女に惑わされ、奪われる人間のうちの一人なんじゃないかと思い始めた。
竹千代は落ち着いた口調で話し始める。
「君は自分が先を歩き、続く者を導いている積もりで、いつのまにか後について歩いているのかもしれない。目指す場所に向かっている積もりで、遠ざかる方向へと進んでいるのかもしれない」
小熊は竹千代に向き直った。彼女の言っていることの意味がわからない。少なくとも自分は間違ったこと、効率や実利、そして道徳に外れたことはしていない積もりでいる。
「何が言いたいの?」
竹千代は小熊に直視されても動じることなく、講堂越しに透視するように焼却炉の方向に視線を投げた。それから小熊が入ろうとした講堂の向かいにある新校舎を指差す。
「小熊君の受ける講義は一般教養だろう?今日はあっちの教室だ」
小熊はスマホを取り出した。確かに学校のサイトから訂正情報がメール送信されている。
内容の訂正に関する印刷物は配布された気がするが、紙ゴミは整理整頓の敵だと思っている小熊は、スマホに入れれば充分と思い、教室のゴミ箱に捨てていた。
踵を返し新校舎に向かおうとした小熊は、振り返って竹千代に言った。
「あんたの手下は良くわかっていなかったらしいからもう一回言っておく。自分の力で何かをしようとしている藜の邪魔をするな」
竹千代は小熊の目を興味深げな様子で見ながら答える。
「君はそうやって生きてきたからね。でも彼もそうだとは限らない」
この部長と話す時には何を言っても無駄だと思っている小熊の頭に、いつもより余計に血が通った気がした。
「あいつには自分を保護するものが誰も居ない。私もそうしようとは思わない。彼はこの世界に他人の助けなんてものが無いことをわからないといけない」
竹千代はまた横を向いた。もしも藜が小熊の言う通りにしているなら、今頃着いているであろう図書館棟の方角。
「彼は生きていく力を充分持っているよ。それだけじゃない、君を生きさせることさえ出来る」
藜を家に置いて得したことなんてそうそう無い。カブ修復の作業進行も良くなるかといえばそうでもない。そのくせ食材や光熱費は確実に増額している。
何より大きな損失は、あんたらとの係わりだと言おうとしたところ、竹千代は幻のように姿を消していた。
小熊は憤然としつつ、一般教養の講義が行われる新校舎へと歩き出した。
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