スーパーカブ 大学編

トネ コーケン

第1話 全損

 車体から不快な振動が伝わってきた時、これはまずいと思った。

 都県境の山道。並行する国道の旧道に当たるという九十九折の道で、小熊とカブは危機に晒されていた。

 スーパーカブはオートバイレースの動画で見た他のバイクのように、車体を傾斜させるのには向かないバイクだという事を忘れていたわけじゃない。

 ただ山越えのワインディングロードで、レーサーレプリカタイプの原付バイクが小熊のカブの真横を追い抜いていき、膝を擦りながら颯爽と曲がっていくのを見て、少し口惜しくなった。

 カブが遅いことではなく、バイクのあんな楽しみ方をカブで出来ないのが気に入らない。そう思った小熊はアクセルを開け、踵で車体をホールドし、お尻をずらしながらコーナーに侵入していった。

 

 車体を傾斜させてもタイヤがグリップを失う様子は無い。そう思った小熊が更にカブを倒した時、下半身にガリっという感触が伝わってきた、  

 ステップが地面に触れ、それまで接地していたタイヤはあっさりと地面を滑り始める。

 既に足を出して踏ん張ることも出来ない状況。転倒が不可避だということに気付いた小熊は、今まで数回の転倒で生傷と共に学んだ経験則に従い、カブを蹴るように飛び降りた。

 アスファルトに叩き付けられた小熊はそのまま地面を滑る。厚手のデニム上下に助けられ、どうやら骨を折るような怪我を避けた小熊の視界には、路面で跳ね転がっているカブが、そのまま道端のガードレールを越えていく姿が映った。

「あ」

 スーパーカブが小熊の前から姿を消した。


 左右を見て車が来ていないことを確認した小熊は、何とか起き上がって道端に駆け寄った。

 ガードレールの向こうは、十mはあろうかという崖。

 体を伸ばして覗き込むと、崖下に小熊のカブが転がっている。

 小熊は徒歩で山道を降り、荒地に転がってるカブに歩み寄った。

 カブは小熊が楽観的に想像したよりもひどい状態だった。

 前後輪のリムは歪み、ウインカーやヘッドライト、テールランプ等の灯火類は全て吹っ飛んでいる。前後のタイヤを支えるフロントフォークとスイングアームもひん曲がり、ハンドルと前輪が別の方向を向いている。

 英国の自動車番組でスーパーカブを特集した時、番組の最後に四階建てのビルの屋上から突き落とされたカブが、ちょうどこんな壊れ方だった。

 誰が見ても山中に打ち捨てられた廃車。小熊も最初にこのカブを見た時は、いっそこのままカブを置いて帰ろうかと思った。 

 カブを引き起こした小熊は、転倒した拍子にOFFの位置に入ったキーをONに回す。驚いたことにニュートラルランプが点灯した。

 ダメモトでキックレバーを踏み下ろしたところ、エンジンが始動した。折れ曲がったマフラーの破れ目から不均一な音を発しながらも、スロットルを捻るとエンジンは回る。

 そんなこと、何の慰めにもならない。


 カブのエンジンを吹かし、ギアをローに入れた小熊は、歪んだタイヤをエンジンパワーで強引に回すような感じで、道路まで押していった。

 跨ってエンジンを吹かしてみる。数m進んですぐに前輪と後輪が互い違いの方向へと走っていくカブから放り出される。それでも、ちょっとは進んだ。

 小熊はエンジンをかけたカブを押し、時々跨ってはちょっと動かし、諦めてまた押し、を繰り返しながら自宅に着いた。

 正直なところ、ここまで壊れたカブを家に持って帰りたくなかった。ただ、小熊の名で登録したナンバーや車体番号の付いたカブを山中に捨てることで、不法投棄等の後難が生じるのが嫌だった。

 それさえ無ければとっくに諦め、このガラクタを道端に捨てていた。

 家に帰った小熊は、カブの置き場となっているコンテナ物置の戸を開け、カブだったものを運び入れた。

 つい数時間前、それなりに手入れの行き届いたカブをここから出したばかり。

 物置の戸を締めた小熊は、玄関を開けて自分の家に入った。今さらになって傷が痛んでくる。そのまま床に転がった。

「ひどいな」

 夏が始まる頃にスーパーカブに出会った小熊は、それから二度目の夏が終わる頃ににスーパーカブを失った。

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