第2話 そこそこの暮らし
十八歳になった小熊は今年、都内の大学に進学した。
相変わらず天涯孤独の親なし、おまけにほぼ無一文の身ながら、通っていた山梨の高校でそうしたように、奨学金の給付を受けることとなった。
多額の学費を誰かに肩代わりして貰うための手続きは、言うは易しの大変なもの。二年生の頃から探し始めた様々な教育基金法人と自力で交渉を重ね、何とか給付の決定を頂戴した。
万が一にも取り消されないように、高校では良好な成績と生活態度を守り続け、大学も特に希望があったわけではないが、給付の認可を受けやすいことを基準に、所在地や専攻を選んだ。
努力はそれなりに実り、推薦を受けた小熊は東京都下、町田市の中北部にある公立大学の文学部に入学し、近隣の賃貸住居を借りた。
節制と倹約を重ねた結果、派手な遊びには無縁だった小熊の高校生活、その傍らにはいつもスーパーカブがあった。
高校二年の初夏に、趣味もない友達も居ない、ないないの人生を変えるべく買った中古のスーパーカブ。小熊の手に渡るまでに人を三人殺しているという、まだ真新しい一万円のカブ。
財布の中身をはたいて、奨学金暮らしには大きな出費となる車両代と諸費用を支払った小熊は、スーパーカブのオーナーになった。
その日から、小熊の高校生活は変わった。
カブで走り回るという楽しみに目覚め、礼子というカブ仲間が出来た。カブを駆って荷物を運ぶバイトで生活の糧すら与えてくれた。
走っていればメンテナンスが必要になるカブの面倒を見るため、整備や部品の出費で苦労させられた経験さえ、小熊にとって新鮮で充実したものだった。
引越しの日、小熊を山梨から東京まで家財と共に運んでくれたのもカブ。
奨学金から家賃補助を受ける小熊が暮らすことになった大学近隣の家は、山梨で住んでいたような鉄筋のアパートではなく、築五十年になろうかという木造平屋の一戸建てだった。
以前は都営住宅とか農地改良住宅と言われ、郊外でよく見かけた木造ワンルーム。今では都営住宅の多くが高層の団地になり、廉価住宅の需要が大手不動産業者系のアパートやマンションに移ったことで、昔ながらの平屋は普通の賃貸物件として流通していた。
家賃は高くはないが最安というわけでもなく、大学近辺にある女子学生向けマンションも借りられるくらい。小熊がそれらの集合住宅より、震災で倒壊しそうな木造平屋を選んだのは、カブのため。
建物は立派でも隣部屋との壁が薄いマンションでは、カブを整備しようにも電動工具すら使えないし、整備する上で避けられないオイルや塗料の臭気を発していたら追い出されかねない。
その木造平屋は右隣が誰も遊びに来ない公園になっていて、左隣は誰も手入れしに来ない畑。近隣の人家からは離れていて少々の騒音は問題にならない。敷地内には狭いながら庭があり、前住人が置いていったコンテナ物置が設置されていた。
小熊は大学や駅の近くにあるマンションの、住人の目が届かず外部の人間が誰でも入れる駐輪場にスーパーカブを置く気にはなれなかった。
カブの盗難リスクがとても高いことは知っている。支柱にワイヤーロックで施錠していてもプロの窃盗団の前には無力だということも聞いている。
カブと各種の工具や部品を置き、整備を行うのにのにちょうどいい四坪少々の物置を見た時、家賃で生活費が今まで以上に圧迫される事を承知で、小熊はこの部屋を借りることに決めた。
いざ入居してみると、木造平屋での暮らしは想像よりも快適だった。
内部はリフォーム済みで、バストイレは小熊が暮らしていた山梨のアパートと同じユニット式のものが設置されている。
プロパンの湯沸かし器もついていて、八畳の和室は以前住んでいたアパートより少し広い。イグサでない合成素材の畳はいささか風情を削ぐが、それはいずれウッドカーペットでも敷こうと思った。
周囲はここが本当に東京かと疑いたくなるような多摩の里山風景だけど、大学まではカブで五分足らず。同じくらいの距離にはショッピングモールもある。カブが整備中で使えない時は、坂越えが少しキツいが自転車でも三十分くらい。
小熊は縁側の大窓から外を見渡した。視界の大半を占めるコンテナ物置には小熊のカブがあった。
今はもうない。あるのはかつてカブだった鉄屑だけ。
小熊が東京でやっと手に入れた。そこそこ満たされた暮らしに、カブが無い。
畳に寝転んだ小熊は、自らの過失が招いた突然の厄難に深い溜め息をついた。
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