第33話 道と未知
鍋を締める雑炊が煮えあがる中、小熊は藜に言った。
「あなたがこれからどんな暮らしをしようと、私には関係ない。ただ死ぬとわかっている崖から飛び降りようとしている人間は、私のカブを修復するのに不適格だと判断するだけ」
小熊がカブに乗り始めてわかったことは、バイクに乗る時、あるいは整備する時に最大の敵となるのは、見通しの甘さ。
バイクが野球やジョギングと違うのは、まぁいいだろう、何とかなるだろうと思ってやった事の先にあるのが破滅だという事。
それを何度も思い知らされた小熊は、つい最近膝に出来た傷を撫でる。
雑炊作りを春目に任せ、悠々と待っていた竹千代が口を開く。
「彼を追い出すということかい?それとも口では何をしてもいいと言いながら、生存のための扶養を盾に、君の選んだ道を進ませるのか」
部室の隅にある流しで飯盒を洗っていた藜が小熊の向かいの席に戻る。卓子に置いた飯盒を小熊に押しやりながら言った。
「僕はもう充分な助けを受けました。これ以上人に頼っているようでは、自分の力で生きていくことなんて出来ません」
ペイジが顔を上げ、藜の腕を掴みながら言った。
「つまりもうレイちゃんはフリーエージェントってことだな、よし決まりこの子はあたしが貰った!」
慎重な手つきで雑炊を作っていた春目は、火を止めた鍋の中にそっと溶き卵を落としながら言う。
「じゃあ藜くんはわたしのアパートに住むといいよ。大家さんには私から、お仕事が見つかるまでお家賃は待って貰えるよう話してあげるから」
春目とペイジが揃って竹千代を見る、勝手に土鍋の蓋を開けた竹千代は、雑炊の出来栄えに満足した表情を浮かべながら言った。
「我がセッケンはこの大学に籍を置く者のみならず、他校生徒の加入も歓迎するよ。無論これから高校生になろうとしている人間もね」
藜の身の置き所が決まっていく。あの胸糞悪い母との再会から始まった、小熊と藜の関係が終わりつつあった。
小熊としてはカブの修復に使用する工具を変更するだけのこと。既に工程は半ばを過ぎていて、ここで藜を失うのは損失になれどカバー出来ないこともない。
どんなに予定を立ててもその通りにはいかないのがバイクというもの。今までの小熊はそのたびに対処を考え、乗り越えてきたし、時に予定外の出来事を楽しんでいた。でも、今までのように頭が回らない。藜が自分の元から居なくなる。カブに乗ることで得た自分の人間らしさのようなものが、一つ消えつつある。
藜に返された飯盒を見た小熊は口を開こうとした。何を言えばいいのかは自分でもわからない。いっそ言葉より目の前の雑炊でもひっくり返したほうが、今の自分の気持ちを表せるかもしれない。
それまで自分自身に関する話し合いを、他人事のように眺めていた藜が声を出した。
「僕は自分で働いて自分の生活を始めます。でも、それは小熊さんの理解を得ていないと意味はありません」
カブ修復の手伝いという関係でしか無い藜にそんな事を言われても面倒くさいだけ、でも不快には思わなかった。
小熊は熊笹のお茶を一口飲み、その合間に答えた。
「理解も納得もする気は無い。あなたの人生はきっと失敗する」
竹千代がまた口を挟む。小熊は今日の竹千代がどこかおかしい事に、春目とペイジは気付いているんだろうかと思った。
「藜君。なぜ君は小熊君の理解を求めるのか、それを聞かせてくれないだろうか」
言いながら竹千代は指を小さく鳴らす。春目が立ち上がり、藜のカップにお茶のおかわりを注ぐ。
小熊は思った。これが竹千代の言うところの友人。自身に利をもたらし損を与えない者。だから小熊は竹千代とは一線引いている。
きっと藜はこれから、春目やペイジのように嬉々として竹千代の餌になる。彼は働き先を見つけるというが、きっとそうすれば、その雇用者が竹千代の役目を果たすだけだろう。
小熊が貸して以来持ち歩いているシェラカップを目の高さに掲げた藜は、春目に軽く頭を下げる。
アンデス風のヤカンを持った春目はニッコリと笑いながら言う。
「雑炊が終わったらお茶菓子を出してあげるからね」
自分の前に盛られた雑炊を、これからの飢えに備えるかのように食べきった藜は、香りはいいが苦味の強い熊笹のお茶を、初めて飲んだ時よりも美味そうな様子で口にしてから話し始めた。
「小熊さんがカブを直すために僕を選んだように、僕も小熊さんを選んだ。どうやって生きるのかわからなかった僕は、カブに妥協なく向き合う小熊さんと、小熊さんの求めに必ず応えるカブを見て、そういうふうにすれば、僕は死なずに済むと思いました」
ペイジがレンゲを振り回しながら言う。
「レイちゃんはレイちゃんだ。他の誰にもなれないよ」
藜はペイジの金髪に手を伸ばした。毛先が雑炊の入っていた椀に入りそうだったので避けてあげただけだが、ペイジは顔を赤くして後ずさる。そのくせ藜に触れられた髪をずっといじっている。
「僕は小熊さんの乗るカブのように、小熊さんに認められるような人間になりたいんです」
そこまで話した藜は春目が部室の隅から取り出したおからのクッキーを差し出されて頭を下げた。
「私はあなたの生き方と決断には同意できない。あなたは自分の力では不可能なことをしようとしている」
藜はクッキーを食べながら小熊を見る。今まで何度か見たような、言葉による攻撃に成す術無く耐えている表情ではない。殴られながらも挑みかかるような顔に見える。
「私は数日間、あなたと一緒に作業をした。あなたのことをある程度知っている。でも、本当のあなたが私の知っているあなたとは異なるならば、私は今まで納得も理解もできなかった物ができるようになるかもしれない」
おからのクッキーを一口食べ、頷いた竹千代が、茶飲み話といった感じで喋る。
「重い荷物を担いで見せるというなら、力を示せということかい?」
クッキーを口に放り込んだ小熊は、一口では食べられないおからクッキーを何度にも分けて食べている藜に言った。
「私のスーパーカブを、あなたが直しなさい」
小熊の発言を聞いた藜の反応は消極的なものだった。
怯むような竦むような、突飛な提案に呆れているようにも見える。手にしているシェラカップのお茶が波を立てていた。
「僕はバイクの修理なんて出来ません」
小熊と暮らすようになって始めてバイクの整備を間近で見たであろう藜は、それは自分にとって未知のものであることと、小熊の手際を見て、とても高度な技術を要するものだということを知った。
小熊は自分で働きながら高校に行きたいなら、その力を見せろと言った。それが不可能な事ならば、出来ない事は出来ないと言うのが正解なのかとも思った。
彼はこれから可能と不可能を見極めて、正しい選択肢だけを選んで歩くことが求められる。
藜はシェラカップを卓子に置いた、その手は震えていない。それから小熊に言った。
「直すためにはどうすればいいか、教えてくれれば出来ます」
小熊はお茶を飲み干し、カップを春目に突き出した
タダで摘んできたにしては香りも味もいいお茶だけど、そう何杯も飲みたいものでもない。ただ、小熊は今カップを卓子に置いたら。カチカチと震える音を発ててしまうだろうと思った。
「もちろんそうする。私のカブを勝手に組ませるわけが無い、でも、常につきっきりで全てを教えてあげられるとは限らない」
藜は自分の手を見た。今までカブ修復の手伝いをしてきた中で、藜がやったのは工具出しと買い物、それから少々の作業のみ。
開いた手を握り締めた藜は顔を上げる。挑むような目をしていた。小熊に、あるいはこれからの自分を待っている物に。
「やります。出来なきゃ僕はこの先ずっと何もできないままになる」
自分に出来ることだけをやるのが仕事じゃない。出来るか出来ないかが不明瞭なまま、目を瞑って飛び込まなくてはいけない場面はいずれやってくる。通れる道だけを通るような考え方では、どこにも道の無い八方塞がりに出くわした時に身動きが取れなくなる。
小熊が知りたかったのは、藜が自分の進む道をよく見て、選べるかではなく、道の無い場所を拓いていけるか。小熊が何度もカブに教えられた事。
つい最近もカブの全損でそういう思いをしたばかり。
藜は自分には不可能なバイク修理という仕事を課せられ、放り出すのではなく、即座に作業は小熊の指示の下で行うという約束を取り付けた。
まぁ最初のテストは満点でもないが合格点はあげてもいいだろう。そう思った小熊は、注がれたお茶を少し無理して飲みきった。
「私はこれから午後の講義に出る。その間に図書館で調べられることは調べておきなさい」
悠々とお茶を飲んでいた竹千代がまた口を挟む、今日の竹千代は小熊と藜で決めた事全てに割り込もうとしている。
「私達が友人たる藜君を助力するのは、当然構わないんだろうね?」
小熊は席を立ちながら言った。
「彼が誰の助けを受けるかは、彼が決めること。ただあんたらは私の作業場には入らせない」
ペイジが不満そうに言った。
「何だよせっかくあたしレイちゃんに手取り足取り教えてやろうと思ってたのに」
卓の上を片付けていた春目も、心配そうな様子で言う。
「差し入れくらい持っていってもいいですよね。ご飯とレトルトだけじゃ可哀想」
小熊が何か言う前に、竹千代が二人に言い聞かせる。
「今、私達が彼のためにすべき事は、情報の収集だ。それ以外の事はとりあえず据え置こう」
その一言でペイジと春目は大人しくなる。
竹千代が無駄に優雅な所作で立ち上がりながら言った。
「さぁ藜君さっそく図書館に行こう。調べなくてはいけない事は多いぞ」
藜は席を立つ前に居住まいを正し、竹千代に深く頭を下げる。
「僕はきっとこれから、生きていくために必要な色々な事をあなたに教えてもらわなくてはなりません。この恩は必ず返します」
「礼には及ばない。友人たる君に手を貸すことは、私自身を助けることでもあるんだ」
それだけ言うと、竹千代はさっさと藜の手を引き、部室を出て行く。春目とペイジも後ろからついていく。
部室に取り残された小熊は、とりあえず春目に言う。
「昼食、ごちそうさま」
小熊から珍しく出た礼の言葉に困惑する春目の横で、竹千代が小熊に鍵を放り投げながら言った。
「出る時に締めといてくれたまえ。鍵は返さなくていい」
後で必ず突き返そうと思ういながら、小熊は誰も居なくなった部室の鍵を締め、講堂へと歩き出した。
大事なカブの修理を素人にやらせる。なんでこんな事を思いついたのかはわからなかった。整備書の通りに組み立てれば確実に終わる作業の道筋が、どうなるか予想もつかない未知の状態になった。
何が起きるかわからない未知の道。小熊がカブに乗る理由の一つでもある。
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