第36話 そのカブを見せて
藜は小熊の指示に従い、カブにガソリタンクを取り付けた。
プレス鉄板をモナカ状に張り合わせた釜に似たカブの車体に、内釜のように収まるガソリンタンクの取り付けボルトを締め、続いて座席とタンクを上から覆うカバーの機能を兼ねたシートを組みつけた。
小熊は幾つかの部品を手に取った。エンジンの吸気側に取り付けるキャブレターとエアクリーナー、排気側のマフラー、点火を受け持つコイルと電装部品。
これらのエンジン補機も、基本的に組みつけてボルトで止めるだけの作業だけど、作業内容ではなく作業ミスをした時のリスクの高さから、要求される技術は今までより高いものになる。
藜がそれを気付いているのか、気付いていないのか。小熊は慎重に見守った。
「済みません。手を洗ってきてもいいですか?」
これから行うのは、汚れた手のままでは出来ない作業。わかっているらしい。
手を綺麗に洗い、カブの前に慎重に座り直した藜に、小熊は部品を渡し、作業方法を教えながら取り付けさせた。
目視できない部位を手探りするような感じでコイルを取り付け、ゴミや異物が入らないようキャブとエアクリーナーを取り付け、ステップとレバーを取り付け、マフラーを新品のガスケットと共に取り付ける。
車体左側に合理的に纏められたCDIとウインカーリレー等の電装部品も取り付け、バッテリーボックスを装着し、その中にバッテリーを押し込む。
一連の作業を終えた藜は深い息を吐いた。小熊は、もっと疲れたかもしれない。
ちょっとでもミスをすればカブのエンジンを壊す作業。それは同時に、一つ間違えれば怪我をする作業でもある。
作業が一段落した小熊はお茶でも飲もうとしたが、腰掛けたオイル缶から立ち上がることが出来ない。藜もビールケースに座ったまま自分が組んだカブを眺めている。
もうこれくらいが限界か。このまま物置の床に倒れこんでしまえば、気を失うように眠れるだろう。そう思っていた小熊を振り返った藜が言った。
「これでエンジンをかけられるんですか?」
小熊は口を開くのも億劫だったが、一応答える。
「まだ無理。電装の配線を繋がなくちゃいけない」
互いの間に、ごく短い間ながら無言の空気が流れた。それから小熊は部品を、藜は工具を、ほぼ同時に手に取る。
「何から始めますか?」
小熊は赤い半透明の部品と、新品の電球を差し出しながら言った。
「テールランプ」
もう休みたい。今すぐ眠りたい。でも、小熊の頭の中にカブのエンジン音が鳴り響いた時、どうにも我慢できなくなった。あの音を聞くまでは眠れない。
二人がぶっ倒れてもいい場所は、もう少し先。
夜から深夜になろうとしている時間。小熊と藜は電装部品と配線ハーネスを繋ぐ作業を始めた。
作業をする藜も、それを指示する小熊も思考力を鈍らせてはいけない作業。ケーブルを通す場所を間違えれば配線を切断することになる。
それだけならいいがハンドルの動きを阻害されたり、切れた配線やコネクターが回転部分に噛み込むようなことがあれば乗り手の命に係わる。
カブのバッテリーが発する乾電池数個分の電圧や電流でも、切断された配線がショートを起こせば配線部材を簡単に溶かし、時に燃やしたりする。
高級車が突然炎上する事故の多くがそれらの配線ショートを原因としている。電装に関するセンスのある人間は、他の人間が設計、作業した配線の取り回しを見ていて時々「こりゃ燃えるぞ」と思うらしい。
テールランプとウインカー、ハンドル横のスイッチボックスを取り付けた藜は、配線の取り回しをする前に、ヘッドライト後ろに集積した各配線のコネクターを繋ぎ合わせ始めた。
手をもう一度拭き、サービスマニュアルに書かれていた配線の色を確かめ、一つ一つのコネクタを接点スプレーで清掃し、キッチンペーパーで拭いた後、結合させる。
狭いライトケースの中に各配線のコネクターが余裕を持って収まるようにしなくてはいけない。無理に押し込めば走行の振動で負担がかかり、接続不良を起こすことがある。
カブの電装がトラブルを起こした時は、ここを開けてテスターをかけて異常を診断、特定する。その時に任意のコネクターをすぐに外すことが出来ないと、後で泣きを見ることになる。その機会が明るい作業場の下で訪れる保証はどこにも無い。暗闇の手探りかもしれない。事故で片手が利かない状況かもしれない。
バイクがスポーツやゲームのような趣味と異なる部分。乗り手を襲い来るトラブルは、それが命に係わるものだったとしても、それがどうしたと言わんばかりにやってくる。バイクにはレフェリーストップも公平をジャッジしてくれるゲーム運営も居ない。頼れるのは己の力のみ。
藜はカブの脳手術ともいえるコネクターの結線を慎重に行っている。指だけを使う工具のいらない工程。小熊は作業の順番以外指示しなかった。
部屋の片付けにも似た感覚が求められる配線の取り回しについては、藜は良好なセンスを持っている。一つ一つのコネクターを、何度も見る角度を変えたり、ハンドルを左右に動かしたりしながら、最適な場所に納めている。
結線が終わり、それらの蓋となるヘッドライトを取り付けた。小熊はライトを後で調整するため、取り付けネジを緩く締めておくように指示しようとしたが、藜はネジを通す穴が調整可能な横長の穴になっているのを見て察しをつけたらしく、強く締めることなく作業を終える。
ヘッドライト下部のネジを締めようとした藜は一つ気付いて、締めかけたネジを逆方向に回して抜き取った。
「これ」
外されたネジは、小熊の手に渡る前の何度かの着脱作業で粗雑な扱いをされたらしく、ネジ頭のプラス部分が潰れていた。
整備をやる人間が「なめたネジ」と呼ぶ損傷ネジを藜から受けとった小熊は、物置の隅にある棚から出したタッパーのうちの一つを開いた。指で触っただけで同じ径、同じピッチのネジを探し出した小熊は藜に渡す。
電装配線の作業が始まって以来、ほとんど指示の類をしていなかった小熊のことを、藜は眩しそうに見ている。小熊は作業を催促するようにプラスのドライバーを渡した。
藜は一つだけ作業を残し、電装部品の取り付けを終えた。
まだ未完成だったのは、一番最初に手をつけたテールランプの結線。車体最後部から伸びる配線を、中央部のブレーキランプスイッチに繋ぐ作業。
見えない車体内部のどこを通せばいいのかわからない。小熊もこの作業は経験が無いので、とりあえず保留し後回しにしていた。
サービスマニュアルにも詳しくは書いてないし、ネットの整備記事にでも頼りになる画像が無いものかと思い、スマホで何度も検索ワードを替えて探したが、参考になりそうな情報は無し。
配線をどう通せばいいのか。間違えればエンジン熱で配線が溶ける。
小熊と藜は、カブ修復の作業をして以来初めて迷った。テールランプの配線。ただそれだけのことがわからず、藜はカブの車体を、小熊はスマホを見続けている。
ただ一つのことを誰かが教えてくれれば解決する問題。そんな人など居なくとも、カブの実車がここに一台あればいい。
行き詰る二人。深夜の静かなコンテナ物置。諦めにも似た感情に支配されそうになった二人の耳に、何かが聞こえた。
軽快なエンジン音。手入れの悪いチェーンの音。銃器のようなシフトチェンジ音。カブの音。
小熊と藜は同時に外に飛び出した。そこに居たのは青いスーパーカブ。新聞を満載している。
新聞など取っていない小熊の家の隣。誰も遊びに来ない公園の管理事務所まで新聞を届けに来た配達員は、突然出てきた二人に驚いた様子。少し強引に郵便受けに新聞を突っ込んで逃げようとした。
小熊がカブの前に回りこみ逃げ場を塞いだところで、藜が横から配達員に近づいて言った。
「ちょっとそのカブ、見せてください!」
二人の勢いに気圧されて動けない新聞配達員を無視し、小熊と藜は新聞配達用プレスカブを覗きこむ。
必要な物を確認した後、深々と頭を下げてお礼を言う藜。配達員は山賊から逃げるような勢いで走り去る。小熊は今見た映像と、そこから得た答えを藜と確認した。
「テールランプの配線は。車体の継ぎ目に沿わせる」
「沿わせてタイラップで止める」
今までの疲れが嘘のような勢いで、小熊と藜はコンテナ物置に駆け戻る。二人には数学の真理に気付いて裸で外に飛び出したアルキメデスの気分がよくわかった。
これだからカブはやめられない。他のカブが見たかったらいつでも見に行ける。時に行くまでもなく向こうから来る。
テールランプの配線取り回しと結線の作業は無事終わり。燃料を補給されたカブは問題なく始動した。藜はそのまま力尽きてダンボールの上にしゃがみこみ、そのまま丸まって動かなくなる。
最良の寝場所、あるいは死に場所を見つけたような藜の体にシュラフをかけた小熊は、自分の部屋に戻って寝ようかと思ったが、部屋までの数メートルを歩く体力が残っていなかったらしく、コンテナ物置の床に大の字になって転がり、暗闇に落ちるような勢いで眠った。
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