第37話 指先
小熊が寝ている時に見たのはカブの夢だった気がする。
走るたびどこかが壊れるカブを直しては走り、直しては走る悪戦苦闘の夢。
体の部品を落としながら走るゾンビのようなカブに乗り、何度装着しても落ちるハンドルやライト、エンジンを拾っては取り付けていた。
両手が空を掻くのを見て、それが夢だと知った。寝返りを打って横を見ると、ほぼ組みあがったように見えるスーパーカブ。
ここには現実がある。今からカブの足回りを組み立てないといけない。
藜は体の上にシュラフをかけたまま寝息を立てていた。彼はカブが壊れる夢を見ていないらしく安らかな寝顔。
小熊は夢の中のカブを退治するべく、今すぐレンチを握って整備を始めたい気分だったが、とりあえずコンテナ物置を出て家に入り、水のシャワーを浴びて肌着と整備用ツナギを替える。台所の戸棚から袋菓子を幾つか掴み取り、冷蔵庫から出したコーヒー牛乳と一緒に抱えてコンテナ物置に戻った。
藜はもう起きていた。袋入りのクッキーやチョコレートを、コーヒー牛乳と共に渡す。
体が動くだけの栄養を摂取できればそれで充分。本当は整備しながら口に出来るゼリー飲料でも欲しいところだった。
まったく健康に悪い趣味だと思ったが、このままカブに乗れないともっと体に悪い。
黙ってクッキーをコーヒー牛乳で流しこんでいる藜に、小熊もお菓子を食べながら言った。
「食べたいなら、まだ幾らでもある」
藜は昨日、春目が保温ポットに入れておいてくれた熊笹のお茶を飲みながら答えた。
「これ以上食べると、後で辛くなります」
これから行うのは足回りの作業。車やバイクでも日曜大工的な素人整備は推奨されていない重要保安部品。
きっと自分が指示し、藜が作業をして組み上げたカブならば、夢の中に出てきたカブのように壊れることは無いんだろう。
藜は小熊の指示に従い、前輪の車軸となるアクスルナットを緩めた。
数日前には見られなかった筋肉の動き。成長期とはいえ人の肉体がそんなに早く発達するわけではない。ただ、今まで何かに力を尽くした経験の無かった藜が、現在の自分にある筋力を最大限に生かすべく、今まで眠っていた部分を動かし、最適化させている。
小熊もカブに乗り、カブを整備するたび自分が少しずつ成長していくのを感じたことはあったが、これほどまでに強い生命力の湧出は初めて見た。
藜は小熊に言われた通り、ホイールベアリングを叩き外す。ボールレースの交換で一度経験した作業。
さっきレンチを扱っている時にも気付いたが、藜は作業順序は正しくとも、思い切りのようなものが足りない。プレスで圧入されたベアリングを力技で叩き外す時も、外され廃棄されるベアリングにまで気遣うよう慎重に叩いている。
口頭で教えてわかるものでも無いので、小熊は藜の肩を叩き、マイナスドライバーを奪い取った。工具箱から自分のハンマーを取り出す。
藜を手でどかしてホイールの前に座った小熊は、藜が何度叩いても外れなかったベアリングを一撃、二撃して浮かせる。三撃目にベアリングは外れた。
「わかった?」
小熊の言わんとしていることは概ね伝わったらしく、工具を受け取った藜は数回の打撃でベアリングを外した。
ホイールの作業を終えた藜と小熊は、サスペンション周りの整備を始める。
リンクの回転軸受けとなる幾つかのメタルはほとんど磨り減っている。こんな状態に気付かず乗っていたとは思わなかった。一度分解したリンクを消耗部品を換えて組み直す。
ブレーキを清掃しシューを取り付ける。高校時代三万kmほど走った後で一度交換したシューは、それから四万kmの走行にもかかわらず、まだ使えそうなくらい残っていた。
二つの半円がバネで繋がったシューを取り付けようとする時、大概の人間は最初にバネを力で広げようと苦労し、何度か作業するうちに半円を二つに折り畳めば、テコの原理でほとんど力を使わず着脱できることに気付く。
小熊が以前初めてブレーキシューを交換した時のように、藜も最初はシューを広げようとしたが、折り畳むことに気付くのは小熊より早かった。
ソケットレンチからトルクレンチに持ち替えた藜がアクセルナットを締め。前輪を取り付けた。
フロント周りの最後の作業となる、前輪とハンドルを繋ぐブレーキワイヤーとスピードメーターケーブルの接続で、藜は配線作業の時にも見せた、小熊を上回るのではないかというセンスで上手くワイヤーを取り回す。
優しい手つきでメーターとブレーキのラインを通してる様は、女の髪に触れているように見えた。
カブの整備を覚えれば女の扱いも上手くなるかもしれない、そう思った小熊は藜の背を見ながら笑みが漏れそうになったが、その相手としては最悪であろう竹千代の顔が思い浮かび、少し渋い顔になる。
前輪に続き、藜は後輪の作業に取りかかった。
前輪の時よりもスムーズにホイールベアリングを交換し、ブレーキを清掃しシューを交換する。
小熊は藜の作業の丁寧さより、早さに成長を見た。何度かの整備経験を経た人間は作業に無駄が無くなり、自ずと仕事が早くなる。センスやノウハウの無い奴は手を抜いていても遅い。
小熊のカブ整備を見た熟練者やプロの整備士も、早くなったという表現をよく褒め言葉に用いていた。次に多いのは綺麗な仕事。手際のいい人間はいじるバイクも着ている作業着も傷つけたり汚したりしない。
小熊は藜の着ているジャージのオイルで汚れた袖を見ながら、そっちはまだまだだと思った。
夕べ来た新聞配達のカブなど、手入れの雑なカブは磨耗し伸びているチェーンと、スプロケットと呼ばれるチェーン歯車を新品に替え、チェーンとブレーキの張りを調整して、足回りの作業を終了させた。
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