第38話 シャンパン
カブにミラーやレッグシールド、キャリア等の外装部品を取り付けさせた小熊は、黄色いナンバープレートをネジ留めしている藜に、次の作業を指示した。
「車体を磨いて、それから片付け」
シリコンスプレーと雑巾を差し出した小熊に、藜は遠慮がちに尋ねる。
「あの、その次は」
小熊は自分の前に広げられた工具を拭きながら答えた。
「終わり。あとは私が試走させるだけ」
数日前、スクラップの状態から始めたカブの修復は、いともあっさりと完了しつつあった。
説明書の最後のページにある作業を終えれば完成するプラモデルとは違う。車やバイクの整備はこんなふうに、終わったか終わっていないのかわからないうちに、とりあえずはここまでかなという感じで区切られる。
「すぐに出てけとは言わないから、早く自分の行き先を決めなさい」
シリコンスプレーを吹付け、車体をピカピカに磨き上げた藜は、小熊を振り返って言った。
「あの、小熊さんにお願いがあります」
雑巾で拭き上げた工具をツールケースに仕舞っていた小熊が眉を上げる。
「これから、少し出かけても構いませんか?」
「どこに行くの?」
言ってはみたものの興味があるわけでは無かった。小熊の気持ちは、もう走り出すことの出来るスーパーカブに注がれている。時刻は正午頃。走りこみに出るにはちょいどいい時間。
藜が何か言おうとしたところで、外から物音がした。
「ちょうどいいタイミングだったようだね。心ばかりの祝いを述べに来たよ」
家の前に停められた軽バンから出てきたのは、セッケンの竹千代。
手には派手なピンク色のボトルのシャンパンを持っていた。
カブ修復の完成を祝ってくれるのは余計なお世話ながら、この部長にしては気が利いていると思ったが、未成年の自分にシャンパンとは何の積もりかと思っていたら、図々しくコンテナ物置に入ってきた竹千代は、藜が綺麗にしたカブを見て言った。
「あぁ、こっちもおめでとう」
訝る小熊の横で、藜が立ち上がって竹千代に頭を下げる。
「わざわざ来て頂いて済みません。こちらから大学まで会いに行こうと、ちょうど今、小熊さんに許可を頂くところでした」
竹千代は鷹揚に手を振りながら言った。
「友人たる君の記念すべき日だ。私からお伺いするのは当然のことさ」
話しの輪から外れたような気になった小熊は、手に提げられた高価そうなシャンパンを指して言った。
「これはどういうこと?」
竹千代はテタンジェ・ノクターンロゼのピンク色のボトルを目の前に掲げながら言った。
「もちろん私からのプレゼントさ」
小熊はシャンパンも竹千代も早々に追い出そうと思った。
「飲んだら乗れない」
竹千代はフォイルのかかったシャンパンの栓を、銃を突きつけるように小熊に向けながら言った。
「君じゃない。藜君の大切な日だ」
首を傾げる小熊に、竹千代は優越感を窺わせる表情で言う。
「知らなかったのかい?彼は今日、十六歳になった」
小熊は彼の戸籍を見た時に、あと数日で十六歳になることに気付いてはいたが、小熊にとってさほど重要度の高くない情報だった。
「シャンパンを冷やしたいのだが、氷とバケツは無いかな?」
小熊は竹千代の手からシャンパンのボトルをひったくりながら言う。
「シャンパングラスなんて物は無いから」
コンテナ物置を出た竹千代は、物置と家の間の空間を眺め回しながら言った。
「それなら心配には及ばないよ」
軽バンからペイジと春目が降りてきた。テールゲートを開け、春目がクーラーボックス、ペイジが大型のコンロとキャンプテーブルを取り出す。
春目が自慢げに開けたボックスの中身は生の肉と野菜。ペイジはコンロを据付け、火を熾し始めている。
自分の家の庭先でバーベキューの準備を始めようとしているセッケンの連中に気圧された小熊の横で、藜が手伝おうとしたが、この場の主賓らしき彼の両肩に竹千代が手を置き、キャンプチェアに着席させた。
作業を終えて工具を片付け、いよいよカブで走れると思っていた小熊は、邪魔者の出現が憎らしかったが、渋々キャンプチェアに腰掛ける。
藜をカブ修復の工具として家に置くことにしたのは自分自身。彼の行き先を決めるまでカブは完成しないんだろう。
オートキャンプ用の大型ガソリンコンロに、鉄板が乗せられる。何れもどこかからの拾い物
肉や野菜が焼かれ、香ばしい煙が流れる。小熊は都下とはいえ東京の住宅地でバーベキューをすることになるとは思わなかった。
竹千代が軽バンから仰々しいピクニックバスケットを取り出し、中から出てきたグラスを二つづつキャンプテーブルに置く。一つ目のトールグラスにガラスのジャグから冷たい熊笹のお茶を注いだ。もう一つはシャンパングラス。
準備が一通り終わった当たりで春目とペイジが席につく。小熊が氷と共に洗面器に突っ込でいたシャンパンを竹千代が手に取る。
「では僭越ながら、我々の新しい仲間の藜君が十六歳になったことを祝して、あと小熊君のカブも」
ペイジが空のシャンパングラスをトントンとテーブルに打ちつけながら「早くしろー」と催促している。竹千代は芝居がかった仕草でシャンパンの栓を抜いた。
意外と地味な音で飛んでったコルクが藜のほうに飛んでいった。藜はマッシュルームのようなコルク栓を膝のあたりでキャッチする。
春目が腰を浮かし、食材の入っていたビニール袋を差し出す。
「藜くん、ゴミはここに」
しばらくコルク栓を握りしめていた藜は春目を、続いて竹千代を見て言った。
「これ、貰ってもいいですか」
竹千代が皆のシャンパングラスにロゼ色の発泡ワインを注ぎながら言う。
「もちろんだとも」
セッケンの三人に釣られるように、藜がグラスを持ち上げる。小熊は竹千代に早く定番の文句を言えと視線で促したが、竹千代はミステリアスな笑みを浮かべながら、こちらを見ている。
半ばしょうがないという気持ちで、小熊はグラスを突き出した。
「乾杯!」
グラスが打ち鳴らされる。小熊と同級生だが一浪していて二十歳を過ぎているペイジは、あっという間に中身を飲み干している。竹千代はシャンパングラスを揺らし、発生しては消えていく泡を見つめながら悠々とシャンパンを口に運んでいる。
幼い見た目に反し酒には強く、部屋ではよく安酒を飲んでいるという春目は、シャンパンのアルコールよりも値段に気圧されている感じで、恐る恐る口をつけている。
小熊は自分の横で、シャンパングラスの中身を見つめている藜に言った。
「いいよ。飲んでも」
シャンパングラスを手にした藜は、泡をたてるグラス越しに目の前の風景を眺めながら言った。
「見ているだけで、楽しいです」
竹千代が愉快そうに笑った。
「いいじゃないか。楽しみ方は千差万別さ」
「心配すんなってレイちゃん全部あたしが飲んでやる」
そう言ったペイジのシャンパングラスはすでに空。竹千代の許しを得るまでお替りを注がない程度の分別はあるらしい。
小熊は、自分のシャンパングラスを手に取った。未成年であるという問題以前に、自らのバイクに乗ったり整備したりする機能を制限するアルコール飲料なんてものを飲む気は無かったが、こうやって自分が成し遂げたことを祝うのも悪くないと思った。
後ろを振り返った。コンテナ物置の前には、小熊が藜と共に修復したスーパーカブ。小熊は、手にしていたシャンパンを自分のカブにぶちまけた。
春目が「勿体無い!」と声を上げる、ペイジが呆れたように「それ虫が来るぞ」と言った。竹千代はシャンパンが回ったのかケラケラ笑いながら「カブが喜んでいる」と言っている。
藜はロゼシャンパンが秋の陽光を浴びてキラキラ光るのを見て言った。
「綺麗です」
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