第35話 傷

 ハンドルを取り付けたことで、カブはエンジン付きの自転車からオートバイに近い格好になった。

 ヘッドライトとスピードメーターを取り付けるプレス鉄板のカバーと一体になったハンドル。ここにカブの電装が集約する。

 藜の作業は小熊と比べてだいぶ遅いけど、慎重で手抜きが無い。

 今まで小熊の整備を後ろから見ていたことや、現在も小熊が作業内容を監督しているという要素もあるんだろうけど、一つ一つの作業を着実に進めている藜を見た小熊は、彼には整備でする上でしばしば不利になる女子特有の非力さが無いということが少し羨ましくなった。

 藜がこれからの人生で、機械というもの、例えばカブとの付き合いをこれからも深めていったなら、いつか自分より上手にカブを整備するようになるんだろうかと思った。

 

 取り付けられたハンドルを下から覗きこむように作業していた藜は、一つの障害物に気付く。細い結束バンド。車やバイクの世界ではタイラップという呼び名が一般的な、使い捨ての樹脂製インシュロック。

 藜は小熊が追加のデジタルメーターを取り付けるため使ったタイラップが邪魔になって、ハンドルの上下を留めるボルトが締められないことに困っている様子だった。

 小熊は工具箱からニッパーを出しながら言った。

「それは切り離して捨てても構わない」

 それから工具箱の横にある一升瓶ほどの大きさのケースを見せる。

「いくらでもあるから」

 タイラップの利点は強度だけでなく、不要になったらハサミやカッターで簡単に切り離せること。それに樹脂には劣化による寿命や強度低下がある。負担のかかる部位のタイラップは、見た目は問題無くとも定期的に交換したほうがいい。


 藜はニッパーを手に取ってタイラップを切断した。もう一本のタイラップを切ろうとしたところで、切断したタイラップの切れ端が跳ねて顔に当たった。

 藜の手元が狂う。刃先が指の横に当たる。小さく声を上げたのはどちらなのか。

 藜はニッパーで誤って切った指から血が垂れ流されるのを見て、呆然としている。

「外の水道で洗ってきなさい。ふやけて血が止まるまで」

 藜は指の傷を手で押さえながら、言われた通りコンテナ物置を出て行く。ほんの少しの出血だったが、顔面は蒼白。

 作業場に戻ってきた藜の手を引き寄せて傷を見た小熊は、人差し指の第二関節の横についた傷口が、太い神経や血管に届いていないことを確かめた後、カットバンを貼り付けた。

「作業を続けて」

 藜は言われた通りハンドル周りの部品取り付けを再開したが、作業はぎこちない。もう一度怪我をしてしまうのを恐れているようにも、流された血でカブが汚れてしまうのを嫌っているようにも見える。それとも、他人に迷惑をかけてしまう失敗を避けているのかもしれない。


 小熊は後ろから藜の肩を叩いた。振り向いた藜に自分の手を見せる。

「バイクに乗ったりいじったりしていれば、怪我をする」

 小熊は左手の傷を指差しながら説明した。

「これはハンマーで叩いた、これはドリルが貫通した、これはバーナーで火傷した、これは、忘れた」

 藜は、顔を上げて小熊に尋ねた。

「痛かったですか?」

「痛くて痛くて、思わず工具箱を蹴っ飛ばすほど痛かった」

 小熊の横にあったスチール製工具箱には、それを裏付けるような傷がついていた。

「怪我をした時、もうカブをいじるのはいやだと思いましたか?」

 小熊は藜の問いに、首を傾げて答えた。

「え?何で?」

 普通の人とは異なるバイク乗りの思考に一つ息を吐いた藜は、戒めるように自分の指を見た後、作業を再開した。

 ついさっき自分に痛い目を負わせたカブを、修理したくてたまらないと言うかのように動く指に、少し戸惑っている。

  

 ハンドルの取り付け後、複雑な電装作業が必要になる灯火やメーター、左右ハンドルのスイッチボックスの取り付けは、とりあえず後回しにした。

 指に怪我をしながら作業を一段落させた藜に、小熊はさっき聞いた内容をもう一度繰り返して尋ねた。

「次は何が足りないと思う?」

 藜はカブと外に置かれた自転車を見比べた。

「ペダル、はカブには無いんですよね」

 小熊は工具箱の横に並べられた部品の一つを手に取りながら言った。

「あるよ。自転車のペダルとは形が違うけど」

 小熊が手にしていたのは足を乗せるステップと。ブレーキと変速を受け持つ左右のペダル。

「ペダルを付けるのはもう少し後のほうがいい、他には?」

 藜はカブを眺めながら少し考えた。

「サドルがありません」

 小熊は頷いて部品取り車のシートを手に取る。

「シートともう一つ。自転車には無いけどバイクには必要なもの」

 藜は意地悪なクイズを出された時のように考え込む。それから何が必要かだけでなく、シート部分の形状に合致した形の部品という他の手がかりから答えを出した。

「ガソリンタンクですか?」

 正解を導き出した藜は少し消極的な顔をしている。小熊が持ち上げたガソリンタンクは、藜のガソリンコンロに使うため中身が抜き取られ、ほぼ空だった。

 

 小熊はタンクキャップを開け、中身を見ながら言う。

「あなたは私が使っていいと言った物を使った。無くなるのは当たり前」

 小熊はコンテナ物置の隅から、五リットル入りのガソリン携行缶を取り出した。

「近くのスタンドで買ってきなさい」

 小熊はポケットの財布から千円札とガソリンスタンドの現金会員カードを取り出し、携行缶と共に渡す。

「わかりました。行ってきます」   

 現金とカードを大事そうにジャージのポケットにしまい、落とさぬようポケットをガムテープで塞いだ藜は、携行缶を自転車の前カゴに入れ、跨ってペダルを漕ぎ出した。

 最寄りのガソリンスタンドは藜が府中の部品屋まで何度か往復した道の途中にある。迷子になる心配は無さそうだと思った小熊は、藜が自転車で出た後で工具を手に取った。


 小熊はさっきまで藜が座っていたビールケースに腰かけ、藜が取り付けたハンドルのボルト類を自分の目と手でチェックし直す。カブを操作する上で重要な部分の作業を素人にやらせ、そうやって組んだカブにそのまま乗るほど小熊は藜を信用していない。

 手早く点検を終えてとりあえず合格点を付け、次の作業に備えてエンジン補機類の部品を揃えていたところへ、藜が帰ってきた。部品屋に行って来た時のように達成感を窺わせる顔をしていない。

「あの、済みません。ガソリン買えませんでした。子供には売れないと言われて」

 申し訳なさそうに空のガソリン缶を返す藜。小熊はジャージのポケットに貼られたガムテープを剥がし、ポケットの中のガソリンカードを取り返す。藜は自分の無力さに口を引き結んでいた。


 小熊はカードを裏返して連絡先を確認し、スマホを出してガソリンスタンドに電話をかけた。

「さっきうちの人間にガソリンを買いに行かせた者だけど、こっちは法規で定められた容器を持って買いに行っている。売れないってのはどういうこと?」

 電話先の店長はバイト従業員の勝手な判断を詫び、次回お越しの際は喜んで給油させて頂くと言っていた。小熊は念を押してから電話を切る。

 心配そうに見ている藜にガソリン缶とカードを渡しながら言った。

「こっちが正しい方法を守っていても、向こうもそうとは限らない。これからのあなたにはそういう事が何度もある。言ってダメならゴネて粘って交渉する」

 藜はさっきまでの落胆が少し晴れたような顔で、再びガソリンを買いに行った。

 小熊は彼の背を見ながら頭を掻いた。世話になっているスタンドに見当違いの文句を言う、これじゃモンスター何とかって奴みたいだと、少し自分に呆れた。

 ただ、誰かの意地悪に傷つけられて帰ってきた藜の顔を見た瞬間、小熊の心の中が火のついたガソリンのように燃え上がった。


 小熊はスマホの時計を見た。時刻はもう九時過ぎ。早寝の小熊ならそろそろ寝る準備を始める頃。夜間の灯りを無駄に使うことを避けている藜も、昨日までなら寝ていた時間。

 ガソリンタンクの取り付けが終われば一応の区切りがつく。そこからは不注意による作業失敗のリスクが高いエンジン補機の取り付け。今日は藜が帰って来た時点で作業を切り上げたほうがいいのかもしれない。

 とりあえず工具や部品の片付けだけでもやっておこうと、小熊が椅子替りのオイル缶から立ち上がったところで、藜が帰ってきた。

「ガソリン、買ってきました」

 藜は満タンの携行缶とお釣り、レシートを差し出す。小熊は携行缶だけ受け取る。

 お駄賃か施しかと思ったのか、三百円少々の釣銭をもう一度小熊に渡そうとした藜に、小熊は言った。

「何かあった時に公衆電話を使ったり、バスに乗ったり出来る程度のお金はいつも持っておきなさい」

 小銭を握りしめた藜は小熊に一つ頭を下げてから、仔牛革のトランクを開けて、内部の小物ポケットに大事そうに仕舞った。

 

 小熊はガソリンタンクとシートを手に取りながら言った。

「これを取り付けて。終わったら次はエンジン周りの組み立てを始める」

 今日の作業を終わらせようと思った小熊は、ガソリンスタンドから帰って来た藜の顔を見た途端に作業を続けることを決めた。

 適度な休憩と食事を取って、良好な状態で作業をすることは大事だけど、昼に進路の調べ物を行い、夜には自転車でガソリンスタンドまで二往復した藜が、小熊よりずっと疲労しているはずなのに、もう次の作業をする準備を初めていることに気付いた時。この勢いを殺いではいけないと思った。

 今までの小熊も、カブの重大な損傷や故障に見舞われた時、それを直す過程は、健康的な趣味を楽しむようなものではなかった。

 腹が減って手足が冷えていき、睡魔のあまり床が自分に向かって飛んでくるまで、執念に取りつかれたように作業を続けることで、小熊は平穏なカブ生活を脅かす不運の神が退散するまで戦ってきた。

 今はただ、力尽き倒れるまで走ろう。小熊はずっとそうしてきたし、藜はこれからそうしないといけない。

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