第17話 ステーキ
礼子は小熊に大丈夫だと言われても警戒を解く様子が無い。小熊は彼女の背を後ろから押した。
「中で説明する」
ついさっき小熊に警棒のついたキーホルダーを取り上げられた礼子は、替わって渡された小熊の登山用カラビナに鍵をつけただけのキーホルダーを受け取った。
玄関を開錠した礼子は、要人の狙撃を警戒する用心棒兼運転手のように、玄関ドアに手をかけたまま小熊を先に入室させ。後ろから入ってくる。
八畳ワンルームの部屋に落ち着いた礼子は、さっきまでのゴッコ遊びみたいな真似に飽きたのか、畳の上に転がった。
「お腹すいた~」
小熊は横になっていると余計に邪魔くさい礼子の手首を取り、オメガ・スピードマスターの腕時計を見た。まだ外は明るいが、冬ならばもう真っ暗になっている時間。
飯より先に状況を説明しておかなくてはいけないと思った小熊は、部屋の中央にある手製のテーブルに買い物袋の中身を広げながら、藜という少年がここで暮らすことになった経緯を話し始める。
礼子が興味を示していたのは、小熊がカブを崖から落としたことと、今朝うまく部品取り車を手に入れたことだった。
バイク乗りをしていると、仲間の事故には敏感になる、すぐに駆けつけて事故車から使えるパーツを剥き取るため。
小熊の母が帰って来たことと、内縁夫の子を一方的に置いていった件については、ケラケラと笑いながら聞いていた、その後、小熊が藜という少年を工具として家に置くことにした話をする頃には、礼子は話の内容よりも自分の空腹に意識を持っていかれている様子。
そこで藜のことを思い出した小熊は、部屋の大窓を開けて縁側から庭に下り、コンテナ物置の開け放たれた入り口から顔を突っ込む。
中には小熊のカブと部品取り車。そしてジャージ姿でトランクに腰掛けている藜が居た。
藜は夕飯の用意をしている様子だった。今朝二合の米を炊いた角型飯盒には、朝と昼に食べた残りの米が少し残っている。それをお茶漬けにするらしく、昼に貰ったらしき緑茶のティーバッグをテーブル替わりの木箱に置き、シェラカップで湯を沸かそうとしている。
見ただけでわかったのは、小熊もこの飯盒で同じことをしていたから。
朝に一合の飯とレトルト牛丼を腹が苦しそうな様子で食べていた藜は、昼にもう一合のご飯を食べ、夜はお茶漬けと貰い物の塩昆布という、夕食には少々侘しい内容。
きっと藜も、ひとつ順番をずらしてあまり多くを食えない朝食をお茶漬けで済ませて、昼と夜に一合ずつ食べれば最適になることに気付いただろうと思った。それも無意味なこと。カブが直るまでの数日間で終わる暮らし。
ガソリンバーナーに火をつける下準備をしていた藜は手を止め、小熊を見た。行儀よく話を聞く姿勢になる。
「夕食後に作業をするから」
藜は「わかりました」とだけ言って、コンロに圧力をかけるポンピングの作業を再開させた。
必要なことを伝えた小熊が室内に戻ると、礼子が空腹のあまり床に伸びたまま動かなくなっていた。
とりあえず早々に食事を済ませるべく、買ってきた食材をテーブルに並べる。米や調味料、レトルトフード等、主に藜に与えたことで小熊の食料ストックから欠落したものの補充。
もう一つ、竹皮で包んだ肉の塊を手に取った。礼子のハンターカブの後部ボックスに入っていたもの。どこで買ってきたのか、あるいはちょろまかしてきたのかも知れない、テンダーロインらしき一kgほどの牛肉。
小熊はそれを見た時。今夜はステーキにしようと思った。カブ修復のささやかな壮行会といったところ。半分に切れば一人五百gほど。小熊も礼子も食べきれるとは思わなかったが、残ったら後で食べればいい。
肉を焼く前に塩胡椒を振るため、切り分けようとした小熊は、いつのまにか礼子の姿が消えているのに気付いた。
開け放たれた部屋の大窓から、礼子が藜の手を引いているのが見える。包丁を置いた小熊は、遠慮する藜を部屋に引っ張り入れようとする礼子に言った。
「家には入れないで、食事は与えてる」
礼子は「えーいいじゃないー」と言いながら、藜を半ば強引に部屋に入れる。一度決めたら誰が何を言っても無駄な相手だということぐらいは高校時代からの付き合いでよくわかっている。小熊はひとつ溜め息をつき、包丁を手に取って一kgの肉を三等分した。
三百gくらいなら腹一杯食べようと思ったら一度で食べられるし、藜もこれから食べる予定のお茶漬けを明日の朝にスライドさせれば、ずれていた食料の消費配分が修正されるだろう。
肉に胡椒と塩を振って包丁の背で叩いた小熊は、フライパンの火をつけ、肉を焼き始めた。
焼きあがると結構ボリュームのある三百gのステーキを皿に乗せた小熊は、三枚の肉のうちの一つを包丁で一口サイズに切り分け、ナイフとフォークでなく箸を取り出した。 藜という少年がナイフとフォークをどれだけ使えるのかわからないが、これなら無理なく食べられるだろう。
塩と胡椒だけで味付けしたステーキの横に、スーパーで買った惣菜のポテトサラダを盛り、テーブルに置いた。
フォークとナイフを二セットと箸、それから礼子が好んで飲んでいる無糖の炭酸水を出した。礼子の影響で小熊も時々飲むようになった。
礼子と藜、そして自分の場所にステーキとグラスを並べ、炭酸水のボトルを中央に置いた小熊は席につく。
胡椒の粒を乗せたステーキを見た礼子は「アメリカの刑務所で週に一回出るステーキみたい」と言いながらも、嬉しそうに肉を切り始めた。
藜もお茶漬けだけのはずが突然ありつく事になったステーキに恐る恐る手を伸ばす。三つのグラスに炭酸水を満たして席についた小熊は、箸を取って自分のステーキを食べ始めた。
藜は小熊を見て「いただきます」と頭を下げ、横に座る礼子を真似るようにナイフとフォークを手に取る。
最初は藜のために箸を用意したけど、小熊はこの少年がナイフとフォークを使えるのか気になった。
彼に対して初めて興味という感情を抱いた。
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