第18話 アゴ

 小熊はミディアムに焼いたテンダーロインのステーキを箸で摘んだ。ステーキを焼いた経験などそんなに無いけど、勘で焼いたら何となくそうなった。

 向かいでステーキを一口サイズに切ることに集中していた様子の礼子が、作業を終えたらしく利き手に持っていたナイフをフォークに持ち替え、肉を食べ始めた。

 

 藜はナイフとフォークを手に、自分と横並びに座る礼子と向かいに座る小熊を交互に見ていたが、どっちも参考にならないことに気付いたのか、教科書通り肉を端から切り始め、女子二人の一口サイズよりだいぶ小さく切った肉を口に入れる。

 自分の財布のことなど考えず贅沢をする小熊の母と行動を共にしていた藜は、最低限のマナーは知っていたらしいが、米とレトルトフードだけの食生活の中で偶然訪れた分厚い肉を食べる機会に戸惑いを覚えている様子。

 礼子は小熊に向かって一方的に喋る。話題は大破したカブについて。

「部品取り、あるんでしょ?」 

 小熊は肉で少し脂っこくなった口にポテトサラダを頬張りながら答える。

「シノさんのとこに入ってた信金の営業車、一万で引っ張ってきた」

 礼子はグラスに炭酸水のおかわりを注ぎ、ついでに中身の減った小熊のグラスにも注ぎながら言う。

「あんな事故車もっと値切れるわよ」

 小熊は他人とこんなに喋るのは久しぶりだと思った。小熊も礼子も酒を飲まないが、炭酸というのは酒に似た効果があるのかもしれない。藜を見ると、給食の三角食べみたいに肉とポテト、炭酸水を交互に口に運んでいる。

「時間無かったし」

 礼子は食事中だというのも構わずスマホを取り出し、あれこれと検索しながら言う。

「ホントだーカブの中古部品も高価くなったわねー、業者が来る前に一万で押さえて正解だったかもねー」

 小熊もテーブルの向かい側から体を伸ばし、礼子のスマホを覗きこむ。

 藜はナイフとフォークを正しく使いながら、あまりマナーよろしくない食事作法で肉を食らっている二人の女子を見ていた。


 スマホに表示されたオークション画面を勝手に操作していた小熊が、不意に顔を上げて言う。

「肉はよく噛んで」

 藜は今までステーキ肉をあまり噛まず飲み込んでいたが、喋るだけでなく食べる時にもよく口の動く小熊と礼子を見た藜は、口の中の肉を何度も噛んだ。

 最初はこの部屋に藜を招き入れることは考えてなかったけど、今夜の夕食はカブ修復作業の壮行会のようなもので、事前に作業内容を話し合うミーティングを兼ねている。

 まだ藜にはカブの話に加わる知識は無いし、小熊も道具にそんな事は求めていなかったが、それらの作業を行う上で大事なことだけは教えておこうと思った。

 強い歯とアゴは強い意思。食欲は生きる力。肉を食うくらいの事に挫けそうな奴には、自分のカブを任せられない。


 小熊と礼子、そして藜の騒がしい夕食時間が終わった。

 一昨日は母から巻き上げた宅配寿司、今日はステーキ、カブを潰して以来、小熊の運不運を調整する何者かがが損失を埋め合わせるかのように、食べる物には恵まれている。

 こんな風に毎日好きなもので腹が満たされるくらいの暮らしをしたい。そのために小熊が買ったもののうちの一つがカブだった気がする。カブはいつも小熊を腹一杯にしてくれた。もちろんそれは食べ物だけではない。

 夕食を終えた礼子は畳の上に転がり、皿を洗う小熊にデザートを要求した。藜は食事の時からずっと同じ場所で、アルミ製のキャンピングチェアに所在無げに座っている。

 小熊は冷蔵庫を開け、さっきスーパーで買った青リンゴをを礼子に投げつけた。

 

 高校時代、暑い真夏に礼子とカブで走り回った時によく喉の渇きを癒したのは、甘みはそんなに無いが噛むとサイダーみたいな汁が迸る青リンゴ。都内ではなかなか売っていないが、幸い小熊の暮らす家の最寄り駅にある大型ショッピングモールで菓子材料として取り扱われている。 

 青リンゴを受け取った礼子はズボラにも寝っ転がったまま丸齧りし始める。自分用の青リンゴを冷蔵庫から取り出した小熊は、もう一つ出して、水で洗って藜の前に置く。

 ラジオから流れる旧い洋画のサントラを聞きながら青リンゴを齧る礼子を横目で見た藜は、習うように口を開けて青リンゴにかぶりつく。口中に広がる酸味に口をすぼませていた藜は、見栄を張って強い酒を無理に飲むみたいに、もう一口食べた。


 食べ終えた青リンゴの芯を、窓越しに隣の畑に放り捨てた礼子が、体を起こしながら言った。

「じゃ、やろうか」

 元より小熊が宿無しの礼子を泊めたのは、カブの修復を手伝わせるため。まだ青リンゴを食べている藜もそう。

 そんな約束など無くとも、カブが壊れていれば最も優先すべき行動はその修理になることは、小熊と礼子の間では当たり前のこと。

 既に破損部品の取り外しは終わっている。部品取り車もある。取寄せなくてはいけない部品をリストアップし発注するためにも、出来るだけ早く作業を始めないといけないだろう。

 リンゴをどこまで食べればいいのか困っている様子の藜から芯を取り上げ、自分の食べた芯と共にゴミ箱に捨てた小熊は、手を洗いながら言った。

「今日はもういいや」


 今日は長い一日だったような気がする。軽バンで山梨まで部品取り車を取りに行き、午前中はセッケンの連中と面倒臭いやりとりをした後で講義。帰路で礼子に出くわし、そのまま夕食を共にしている。

 肉体的な疲労と気疲れの両方で、自分がバテていると自覚していた小熊は、こんなコンディションで精密な作業が求められるカブの整備を、ミスすることなく出来るんだろうかと思った。

 一刻も早くカブを稼動状態に戻すために、必要なものを揃えたが、急いでいる時こそ性急な行動をしてはいけないのは、カブに乗った時の経験で承知している。

 本当に急いでいる時に必要なのは、スピードという足し算ではなく些細なミスという引き算を回避すること。急いでいる時こそいつもの道をいつも通りの走りで、そう心がけていれば思考が混乱することもなく、カブでの走行だけでなく、目的地でカブを降りた後も迅速に動ける。


「ふーん」  

 小熊の顔を見た礼子は、外のコンテナ物置に視線を移した。小熊も礼子も、まだ整備経験の浅い高校生の時は、どんなに疲れて帰ってきてもカブの調子が悪ければ、すぐにメンテナンスを始めていた。

「それもそうね」

 礼子はそれだけ言って。自分のカブに積んであったシュラフを広げ始める。藜が椅子から立ち上がった。

「あの、晩ごはん、ありがとうございました」

 肉を持ってきた礼子と料理した小熊を交互に見ながら頭を下げる藜。礼子は目を細めて笑っている。

 小熊は、玄関よりコンテナ物置に近い部屋の大窓を開けている藜に言った。

「明日は六時から」

 部屋に居る間ずっと居心地悪そうだった藜が、自分のすべき行動を示されたことで、幾らか安心した顔をしながら言った。

「わかりました」

 藜がコンテナ物置に戻り、外の水道から水を出してシェラカップとセッケンから貰ったホテル用の歯磨きセットで歯を磨いてるのを見ながら、小熊も流しで歯を磨く。

 青リンゴを歯磨き替わりにしたらしき礼子にも歯を磨かせるべく、もうシュラフに潜りこみ寝ようとしている礼子の尻を蹴った。

 

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