第15話 フェアトレード


 午後の講義を終えた小熊は駐輪場に向かった。昨日から置きっぱなしだった自転車は盗まれていなかった。

 同級生からはこんなボロ自転車なんてだれも持ってかないと言われたが、見た目が古びていて価値の低そうなものほど盗難リスクは高いことは、カブに乗るようになってから周囲から伝え聞く盗難被害の話を聞いて知っている。

 真新しい自転車と違って盗む側の心理的ハードルが低く、被害額の低さゆえ盗難届けを出す可能性も少ないんじゃないかと麻痺させられるというが、盗られる側にしてみれば新車だろうと中古だろうと、生活の必需品であることには変わりない。

 

 ワイヤーロックを外して前カゴに放り込んだ小熊は、藜を図書館に残していることを思い出し、一度跨ったサドルから降りた。

 ここまでの往路はセッケンに借りた軽バンで来たが、帰りの足をどうするか迷った。

 藜を自転車の後ろに乗せて行くのは論外。二人乗りをしていて警官に出くわしたとしてもせいぜい注意程度で、以前は定められた法規を破ることなく暮らすことを心がけてきた小熊も、スーパーカブに乗るようになってからは実害やリスクが軽微であれば気にしないようになった。

 ただし物理的、具体的な理由があれば話は別。南大沢の駅近くにある大学から総合斎場付近にある小熊の賃貸平屋まで、まっすぐ南下する道は延々と続く坂になっている。

 カブが整備などの都合で自転車通学した時は、いつも帰路で苦労させられるし、後ろに人ひとりを乗せて上り坂のペダルを漕ぐ気にはなれなかった。


 小熊は独立した建物になっている図書館棟まで歩きながら考えた。藜に幾らか金を渡してバスで帰らせるか、それとも自転車を貸して自分は歩くか。

 何れも却下。小熊が藜を家に住まわせ、糧を与えているのは小熊自身が楽をするためであって、負担を背負い込むためでは無い。

 結局、自分はいつも通り自転車で帰り、藜には歩いて帰らせるのが最善だろうという結論に至る。道に迷うことさえなければ一時間ほどのウォーキングで家に着く。生きていくためにそれくらいの事も出来ない人間に、カブ修復の手伝いなど任せられない。


 大学図書館に入った小熊は、午前中と同じ席に着く藜を見つけた。小熊が読むように言いつけたバイク雑誌を熟読している。

 小熊が注目したのは、藜が雑誌記事を読みながら、時々ページをめくり読み飛ばしていること。目前にある情報を全て取り入れるのではなく、有限の時間と記憶力の中で得る情報を慎重に取捨選択する。藜はそれを実行しようとしている。

 もしかしたらそれはバイク雑誌から得られる嘘や誇張の多い情報より、役に立つことかもしれない。そう思いながら小熊は、藜の居る机へと向かった。


 読書と学習に集中しているらしき藜は、真向かいに立った小熊の存在に気付くまで少し時間がかかった。小熊の視線に反応したらしく、顔を上げる。

「帰るよ」

 藜は小熊の言葉に反応し、左右に積み上げられたバイク雑誌を手元に集める。

「片付けてきます」

 そう言って数十冊の雑誌を抱えた藜は、窓際の雑誌棚まで歩いて行き、利用者だけでなく図書館職員からさえ粗雑に扱われている蔵書雑誌を、丁寧に棚に戻している。

 片付けを終え、トランクを持った藜を従えて図書館を出る。貸し出し窓口を通る時、藜は司書に頭を下げた。

「ありがとうございました」

 見た目の地味な図書館司書は、小熊が図書館を利用した時には一度も見せたことの無い笑顔で言った。

「次からは好きに入ってきて読んでいいわよ。読みたい本があったら何でも相談して。本のこと以外でも」

 戸惑った感じで不器用に頭を下げた藜は、歩調を早めた小熊の後を小走りに追った。


 図書館棟から駐輪場に行くまでの間、小熊は藜に聞いた。

「あれを読んで、何かわかった事はあった?」

 まだ残暑の残る初秋の西日に照らされ、白い肌を少し紅潮させた藜は言った。

「あの、オートバイって大変なんですね。買うのも乗るのも、直すのも大変で」

 小熊は一つ頷いただけで、何も言わず自転車置き場へと歩いた。結局のところバイク雑誌からはさほど情報を得られなかったらしい。

 それに、藜が今日、本を読んで得たようなことは、これから自分自身の経験でたっぷりと知ることになる。


 駐輪場で小熊は、後ろからついてきた藜を振り返った。

 小熊と自転車を見た藜は、大学の敷地外と繋がる駐輪場の出入り口越しに、外の道路を見ながら言った。

「あの、この先の信号を左に曲がって真っ直ぐですよね?それから陸橋をくぐって最初の曲がり角を右に」

 小熊は「そう」とだけ答えた。小熊が言うまでもなく、藜は自分が、歩いて帰らなくてはならないことを知っている。

 苦難を受け入れ、むしろ帰れる場所があるだけで充分といった顔の藜を見た小熊は、自分が必ずしも正しいことをしているのではないのかもしれないと思い始めた。


 元よりカブの修復のために、何の縁も無い藜を家に置き、生きていくための必要最低限な物の提供以外のことをする積もりでは無かったが、成人男子の足でも一時間かかる上り坂をこの少年に歩かせるということは、藜という工具を紛失するリスクがあるのかもしれない。そうすれば、小熊がカブ修復のため藜に支払った少々の先行投資が無駄になり、頭の中で組み立て始めたタイムスケジュールも狂う。

 それに、小熊を迷わせているもう一つ要因は、自分が不人情で道義に外れた人間なのではないかという気持ち。この少年に、小熊自身の実益という前提で手をさしのべてやった積もりが、結局のところ彼の野垂れ死にを後押ししだけかもしれない。


 小熊は自分が善行の出来る善人だとは思っていないし、そんな人間なら親も金も無い身で今まで生き延びてはいなかったと信じているが、そうすることが出来たのは、自分に保護や支援が必要だと認めてくれた人や、憐れんで施しを与えてくれた馬鹿のおかげだということも承知していた。

 善意と悪意、そして偽善。それらを多く見てきた小熊は、藜にとって自分がどんな存在なのかを少し考えさせられた。

 自分が弱者を食い物にする悪意ある人間になることは、時にやむをえない事もある。それでも小熊は、自ら進んで悪事に手を染める事は出来るだけしないよう努めてきた積もりだった。今の暮らしには致命的な警察沙汰というリクスだけでは無い、心理的な充足感の問題。


 今ここで自転車に乗り、藜を家まで歩かせれば、これからも小熊は藜から奪い取る側の人間になる。それが悪いことだとは思わないが、小熊はそんな悪意によって修復したカブは、少し格好悪いものになるのではないかと思った。

 自分が藜に対して少々のコストを払い足すことで、自分のカブにいささか偽善臭くとも公正な取引によって作られたというフェアトレードの札をつけられるなら、それは結果的に利を得ることになるのかもしれない。

 小熊は藜を呼び止めて言った。

「これで先に帰ってて」

 藜は自転車を押し付ける小熊を見た。小熊は自分を不思議そうに見る少年が、今まで人の善意と悪意、どちらに多く触れてきたのかと思った。

「お姉さんはどうやって帰るんですか?」

 小熊は藜に、早く自転車に乗るよう促しながら言った。

「あなたには関係ない」

 藜は頷き、前カゴにトランクを入れた、恐る恐る跨ってペダルを漕ぎ始める。自転車には乗れる様子。

 自転車にさえ乗れればカブに乗れる。ふと小熊はそう思ったが、頭を振ってこれからの修復作業には関係の無い考え事を打ち切る。


 徒歩で大学を出た小熊は、結局歩いて帰ることにした。

 大学前から出ているバスを使っても停留所から家までは結構歩くし、藜に自転車を使わせるというコストを払ったというのに、金銭的な損失まで負わされてはたまらない。

 学校から家までの登り坂を歩きながら、帰りに食料品の買い物をしなくてはならなかった事を思い出し、大学付近にあるスーパーが見えてきたあたりで財布を取り出し、残金を確かめようとした。

 太く重厚な音。赤い残像。どこかから手が伸びてきて、小熊の財布を奪い取って行った。

 小熊のすぐ近くを掠めるように赤い原付バイクで駆け抜け、原付にはありえない加速で走り去っていくひったくり犯を、小熊は追いかけることはしなかった。

 赤い原付の主は、すぐ先で小熊を待っていた。

 赤いカブ、前後のオフロードタイヤと高い位置のマフラー、CT一一〇ハンターカブと呼ばれる、輸出用の全地形対応型カブ。

 オフロード用のヘルメットを被ったハンターカブの乗り手は、小熊に財布を投げ返してゴーグルを上げ、満面の笑みを浮かべた。

「そんな辛気臭い顔してるから盗まれるのよ」

 小熊は、山梨での高校時代を同じスーパーカブ乗りとして共有した女に、笑顔とも渋面ともつかぬ表情をしながら言った。

「おかえり、礼子」 

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