第16話 礼子

 小熊の前で停車したハンターカブの女、礼子は小熊の高校時代からの友人だった。

 同じカブ通学者として話すようになったのをきっかけに、よく一緒に整備やツーリングをした。

 小熊のスマホには礼子と二人で行った国内各所の写真が残っている。その横にはいつも礼子の赤いカブと、小熊の緑のカブがあった。

 ブルーグレイの作業着上下にワークブーツ姿の礼子は、小熊がカブに乗っていないのを不思議そうに見ている。

「カブは?」

 小熊が礼子に、同じカブに乗っているという部分以外で共感を覚えているのは、常に直裁で単刀直入な言葉と行動。小熊も特に気負うことなく答える。

「転んで潰した。これから直すから手伝って」 


 礼子は特に驚くこともなく頷き、小熊に向かって掌を出した。

「四日ね」

 小熊は礼子の手を取り、突き出された四本の指を一本折る。

「三日泊める」

 少し考える様子見せた礼子は、三本の指で小熊の手を掴まえた。強い握力。

「三日。食事つき」

 小熊は礼子の手を包み込むように握る奇妙な握手をしながら答えた。握力なら小熊だって負けていない。

「それでいい」  

 親無しで奨学金暮らしの小熊とは対照的に、東京で議員をやっている富裕な親の所有する別荘に住んでいた礼子には現在、我が家と呼べるものが無かった。

  

 小熊が高校三年に進学し、今の暮らしを少しでも良くするために、奨学金による大学進学の準備を始めた頃、礼子もまた自らの進路を決めていた。

 進路希望表に彼女か書いたのは「放浪」

 高校を卒業しても特に学びたいことや、やりたい仕事を思いつかず、ただカブで走り続けたかった礼子は、迷うことなく世界を放浪し見聞を広めるという進路を選んだ。

 この自分のしたい事だけをして生きている少女が、読んで字のごとく進む道を問われた時に出した答えは、まずは進みたい道を探すこと。

 礼子の両親も娘の選択を支持した。父親もまた礼子と同じように、海外の大学に進学した後、休学して徒歩で世界各国を放浪していて、タイの日本人バックパッカーの溜まり場で礼子の母と知り合った。

 放浪を小熊が半ば強引に留学のための語学習得と書き換えた進路を、担任教師に呑ませた礼子は、そのまま小熊と共に高校を卒業した。

 東京で大学生になる小熊と、別荘を引き払いホームレスに近い状態になった礼子。不自由な小熊と自由な礼子。


 有言を実行すべく、どこまでも走っていける生活を始めた礼子は、結局のところ両親の出費でパックツアー程度の海外旅行を何度かしただけで、今は日本国内を走り回っていて、たまに都内の実家や小熊の家にやってくる。

 今も夏半ばの頃に上高地を走ってくると言って小熊の家を出てから、長野では秋の訪れと同時に突然来る寒さに嫌気が差したらしく、一ヶ月もしないうちに東京に帰ってきている。

 小熊はそのたび、カブの整備や家のリフォームなどの手伝いと引き換えに家に泊めているが、寝具も食器も全てハンターカブに積んで持ち歩いているだけ、ただの客よりはマシなんだろう。


 小熊は礼子を付き合わせてスーパーでの買い物を済ませた。食材の詰まった袋を持った小熊は、礼子がハンターカブ後部に取り付けた郵政カブ用の大型荷物ボックスを開けた。

 中を漁って取り出したのは、文庫本ほどの大きさの袋。中身は広げて頭に被ることの出来る、防災備蓄用折り畳みヘルメット。

 礼子と小熊のカブは二人乗りが可能な原付二種だけど、いつも予備のヘルメットを持ち歩くわけにもいかない。礼子はそう言って通販ページをクリックしていたが、小熊から見れば単にそのヘルメットが災害で実際に役立った様を見て衝動的に欲しくなったようにしか見えない   

 折り畳みヘルメットを被り、買い物袋をボックスに収納した小熊は、荷台が大型ボックスで占領されたハンターカブのサドルに二つのお尻を詰め込む、強引な二人乗りをして、礼子と共に家まで帰った。


 小熊の暮らす家の前にハンターカブを停めた礼子は、小熊の家に停める時には挿しっぱなしにしていることが多いエンジンキーを抜いて尻ポケットに突っ込みながら、図々しく小熊よりも先に家に入ろうとする。

 後部のボックスから買い物袋を取り出した小熊は礼子を追いかけ、礼子が作業ズボンの尻ポケットに突っ込んだままの手に、自分の手を重ねた。

「大丈夫だから」

 小熊はそう言いながら、玄関より物置を見ていた礼子が尻ポケットの中で手にしていた、十五cmほどの高強度樹脂製警棒のついたキーホルダーを取り上げた。

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