第27話 ハーネス

 コンテナの中では、藜が部品の詰まったレジカゴに手を突っ込み、納品書を片手に一つ一つラベルを見ながら、自分が買ってきた部品の名前を確認していた。

 椅子替わりのオイル缶に座った小熊は、藜に声をかける。

「一休みする。コーヒー入れるから」

 小熊は藜に貸している貸したシェラカップを手に取った。藜は小熊が約束した死なない程度の食料の中に、コーヒーが入っているのかわかりかねている様子。

 藜のシェラカップにパーコレーターのコーヒーを注いだ小熊は、自分のカップをコーヒーで満たした後、十個ほどの袋が束になったピーナツバターのクラッカーを出した。

「半分、食べていい」

 休憩も茶菓子も必要あっての物。これからカブのエンジンを組み立てる疲労の残った状態での作業は許されない。

 藜は自分のコーヒーにセッケンから貰った砂糖とクリームを入れ、クラッカーを頬張り始めた。


 短い休憩を挟んだ小熊は、分解していたエンジンの組み立てを開始した

 作業スペースをいつもより丁寧に片付け、必要な部品を並べ、どうせすぐにオイルで汚れる手を雑巾で丁寧に拭く。外科手術でも始めるような気分だと思った。

 準備を終えた小熊は、エンジン整備の最初の作業、クランクシャフトの軸受けメタルを打ち替える作業を開始する。

 事前に冷凍庫で冷やしたメタルは、ボールレースとは対照的にすんなりと穴に嵌る。

 出来るだけ分解することなく取り出したミッションを取り付け、定番消耗品のシフトフォーク、シフトシャフトとオイルシールを替える。左右クランクケースのあわせ目をオイルストーンで丁寧に磨き、新品のガスケットを挟んで組みつける。トルクレンチを使って丁寧にボルトを締めた。

 クラッチとフライホイール、コイルを取り付け、カバーを付けて、エンジンの腰下と呼ばれるクランクケースの組み立ては終わった。

 続いて腰上のシリンダーとピストン。こっちは何度も分解した経験があるので慣れたもの。カブのエンジンはバルブタイミングも点火時期も、専用の測定器を使うこなく部品の目印に合わせるだけで問題なく調整できるようになっている。街の自転車屋でも直せるようにするため、発展途上国への輸出とそこでの運用のため、理由は色々あるらしいが、結果として小熊のように自分でいじる人間には優しい構造。

 

 エンジンの組み立ては順調すぎるくらい順調に進む。難しい箇所があっては困る部分。順調でなくては問題がある。小熊は最初からそうなるように準備した。一つ一つの作業は簡単でも、その簡単な作業を一つでも間違えたり忘れたりすれば、大きな代償を払う。

 最後に四本のシリンダーボルトを締めた小熊は、深い息を吐いた。

「終わり」

 エンジンを組む作業は終わった。まだ時間は早いけど、小熊は今日の作業も終わりにするつもりだった。リスクの高い作業で体力と集中力を使い切った。

 小熊は組みあがったエンジンを見た。小熊のカブを動かすことになる機械。小熊の脳裏に一瞬、自分がカブに乗って走る姿が浮かんだ。

「次はエンジンを積んで、車体をもう少し組む」

 藜は単なる作業予定の説明を聞いたような感じで、淡々と工具を準備している。

 どんなに疲れていても、どうしてもカブを直したい。小熊は自分には不似合いだと思っていた、熱意という感情を自覚した

 組み立てを終えたエンジンをビールケースの上に置き、脇にどけた小熊は、前後タイヤの付いたフレームの前に、黒いゴムホースのような物を持って来る。

 スーパーカブの電装部品を繋ぐ、ワイヤーハーネスと言われる電線の束。エンジンが心臓、フレームが骨なら、血管となる部品。

 エンジンを積む前にフレームに電気配線を引かなくてはならない。小熊にとって苦手な作業の一つ。

 小熊が電気工事を不得手とする理由の一つは、ハーネスの引き回しという作業には正確さだけではなく、センスというものが求められるから。


 小熊がカブを通して知り合ったプロの整備士は、過去に別の人間の手の入った古い車やバイクの電気配線を見た時、その配線処理のセンスに感嘆したり、逆に仕事の汚さに呆れたりすることがあるという。

 うまく配線を通したと思ったら走行中の振動で予想外の負担がかかったり、ハンドル等の各部の動きに支障が出たりする。機械的な部品なら動きや音を見れば原因の察しはつくが、電気系統のトラブルはテスターを使わないと特定出来ず、鉄やプラスティックで出来た他の部品に比べ、銅線をゴムで覆った電気配線という物は簡単に切れる。

 これでも整備士にすら把握できないほど複雑だという自動車のワイヤーハーネスよりマシなんだろう。カブは動脈となる太いハーネスが一本と、静脈のような何本かの支流があるだけ。 


 整備マニュアルと自身の記憶、それからセンスとかいうものを頼りに、何とかハーネスを取り付けた小熊は、フレームを眺めながら少し考える。

「ちょっと来て」

 近づいてきた藜に、小熊はフレーム内部を指差して言った。

「どう思う?」

 工具と少々の作業がわかるようになった藜にも、カブ整備の中でも難易度の高い電気配線の引き回しなどわかるものではない。ただ、小熊は技術よりセンスを求められる作業で、自分だけでない誰かが客観的に見た感想を聞きたかった。

 フレームの中を覗きこんだ藜は、フレームの中心近くを指差した。

「綺麗です。でも、ここが少し苦しそう」

 バッテリーが収まる部分。確かに配線を綺麗にまとめたと思ったが、細い支線が上に来ていて、電装部品を整備する時によく着脱するバッテリーボックスを出し入れする時に、引っかかったり擦れたりしそう。

 小熊は一端配線を引き剥がし、細い線を下に、太いケーブルを上に通した。

 そこは元から鉄板のフレームにある合わせ目の溝に配線を通すことを前提とした設計になっていたらしく、細い線を下にすると配線はピッタリと収まった。

 それからも小熊は、藜に配線を見せながら作業をする。やっぱり異変や不自然な部位を見つける事に関しては、カブと長く付き合っている小熊のほうが優れている。しかしながら藜も、センスと呼ばれるものを持っているらしい。

 ハーネスを引き回す作業を終えた小熊はフレームにエンジンを載せる。自動車ならエンジン脱着は大仕事で、ディーラーならスーパーカブの新車一台分くらいの工賃を取るというが、カブは二箇所のボルトを止めるだけ。

 前後タイヤにエンジン。小熊のカブはまた一つ完成に近づいた。

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