第26話 パーコレーター

 卵とハムのチャーハンを作った小熊は、礼子が居た時の癖で多く作りすぎてしまったことに気付く。

 フライパンの中のチャーハンは普段一人分を作る時より多目のご飯を、最大の火力で炒めたせいで、普段より出来がいい。

 一人では食べきれないチャーハンを見た小熊はフライパンを置き、コンテナ物置の見える縁側の大窓を開けた。縁側から狭い庭に降り、藜の居るコンテナ物置に近づく。

今日くらいは部屋で食事させてもいいだろう。どうせ作りすぎたチャーハンだし小熊に損失は無い。それに午後からの作業について今から色々教えていたほうがいいだろうと言い訳もあった。

 小熊が扉の影からコンテナ物置の中を覗きこむと、藜はちょうど炊飯をしていた。ガソリンバーナーを慎重な手つきで扱い、米と水を入れた飯盒をかけている。

 小熊はそっと扉から離れ。自分の家に戻った。もしも藜にチャーハンを食べさせたら、彼は礼の一つも言うだろう、でも、今の藜が飯盒で炊けていくご飯を見つめる、また一つ生命の危機を脱したことを思わせる、幸せそうな顔には及ばない。


 物置の中ながら雨風を凌ぎ、米とレトルトだけながら食べる物もある、そんな藜の暮らしも、カブの修復作業をしている間だけ、それが終われば小熊は、藜を放り出さなくてはいけない。

 それから彼がどうするかなんて小熊の知ったことではないが、少なくとも今の彼が覚えなくてはいけないのは、小熊がお情けで与えたチャーハンの味ではなく、彼が役に立つ存在として認められた上で、正当な交換品として得たご飯の温かさだろう。

 誰も保護する者の居ない彼はこれからそういう人生を送ることになる。それは小熊自身がそうだったからよくわかる。

 テーブルについた小熊はチャーハンを食べ始める。半分を食べて半分を冷蔵庫に入れておけば無駄も無い。

 さっきまで上手に出来たと思ったチャーハンは少し冷めたらしく、思ったより味気なかった。


 昼休みを終えた小熊は、午後の作業を始めるべくコンテナ物置に入った。

 中では藜が昼食を片付け、工具箱の横に置かれたプラスティックのビールケースに座り、いつでも作業を始められるよう準備していた。

 それまでは小熊が物置に来る気配を察して動いていた藜が、小熊が午後一時にコンテナ物置にやってくる頃にはもう用意を終えている。

 小熊は藜に自分の使っていた時計を与えたが、それが彼を良い方向に変えたのか、それとも大事な物を失わせたのかはわからなかった。 ただ、それまで肌身離さず持ち歩き、作業中は椅子として使っていたトランクではなく、コンテナ内にあったビールケースに座るようになったのは、小熊にとって好ましく思える事だった。

 椅子替わりに使えるという宣伝文句のトランクも、常に椅子として使っていれば本来の用途とは異なる負荷を受けることで、寿命は削られる。

 トランクに依存していた藜の微妙な変化。心なんていう形の無い物がどう変わろうと小熊にはわからない。ただ、物がどう使われてどうやって消耗し、あるいは破損していくかという、目に見える物なら少しはわかる。


 フレームの前に座った小熊は、ボールレースを打ち替えたボールレースにステムベアリングとフロントフォークを取り付ける

 続いてサスペンションを組み込む。軸受けのカラーは磨り減ってひどい状態だった。きっと事故より前から磨耗が進んでいた。部品取り車から剥ぎ取った物も同じような感じ。新品を注文して正解だと思った。

 組み立てが終わったフォークにフロントホイールを取り付ける。ブレーキ周りの作業はとりあえ後回し。

 チェーン歯車のスプロケットは小熊が見た限り交換が必要。その時にはまたホイール回りをバラさなくてないけないが、今は通販で取寄せている部品が届くまでに他の部分の作業を進めないといけない。まずはカブを二つのタイヤで自立させることが優先。


 午前中に何時間も費やしたボールレース打ち替えと対照的に、午後の作業が次々と進み、フレームだけだったカブがバイクっぽい姿になっていく。

 作業の間、次々と工具の名前を言って藜に工具箱から取り出させ、てきぱきと作業を進めていく小熊を、藜は魔法を使う人間を見るような目で見ていた。

 小熊も十六でカブに乗り始めて二年以上の時が流れ、小熊やカブ仲間のカブが壊れていくに従って必然的に身につけた多様な整備技術だけでなく、作業そのものがだいぶ早くなった。バイクに乗り、自分でバイクを整備する人間なら、誰でも使える魔法。

 習得には呪文の詠唱よりずっと長い時間と手間を要する、悪魔に払わなくてはいけない代償も随分多い。例えば明日走りたいって時にバイクを壊せば、その日の夜は丸々バイク整備の悪魔に捧げる生贄となる。それに奴らは実に厄介な連中で、しばしば財布の中身を根こそぎ浚ってったり、時に腕や足、あるいは命を求めたりもする。

 小熊は自分の手を見た。バイクの悪魔と契約を交わした証のように、グリスで黒く汚れた指。後ろから藜が工具を差し出す。

 その手は小熊より細く小さかったが、小熊と同じく汚れていた。

 きっと少年は、悪魔にとても気に入られたに違いない。


 車体回りの作業を一段落させた小熊は、短い休憩を取ることにした。

 藜をコンテナ物置の中で待たせたまま、物置を出て数歩の距離にある家の中に入り、台所の食器棚からパーコレーターを出す。

 細く背の高いステンレス製のヤカンのようなコーヒードリップ器は礼子のもので、小熊の家に置きっぱなしにしている。

 パーコレーターの中は、ガラス蓋を開けると穴のたくさん開いたバスケットがあるだけのシンプルなもの。小熊はバスケットの中に荒挽きのコーヒーを入れ、水を満たしてガスコンロにかける。

 戸棚を開け、買い置きの袋菓子の中からピーナツバターを挟んだクラッカーを選んだ小熊は、パーコレーターを見る、ガラス蓋の中で対流するコーヒーがいい色になってきた頃合で火を止め、パーコレーターとカップ、クラッカーを持ってコンテナ物置に戻る。

 インスタントじゃなくパーコレーターでコーヒーを沸かしたことに、深い理由は無かった。ただインスタントより小熊のコネで業販価格で買えるコーヒー豆のほうが安いから。それに、カブではごく稀だが空冷エンジンが夏季に起こす定番トラブルの一つ、ガソリンが沸騰するパーコレーションと呼ばれる現象と、その原理を理解するには、実際にパーコレーターでコーヒーを沸かすのが手っ取り早い。

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