第24話 ボールレース
フレームにスイングアームとリアショックを取り付ける小熊の目に、フェンダーの後部、テールランプの取り付け穴が目に入る。
車体回りの作業が一通り終わったら、小熊が苦手な電装回りの作業をしなくてはならないかと思うと、少しウンザリする。
小熊の視線と僅かな感情の動きに気付いたのか、藜が話しかけてくる。
「そこに赤く光るランプを付けるんですか?」
小熊はサスペンションのガタつきや動きの異常を慎重にチェックしながら答えた。
「そう。面倒くさい」
小熊は、自分が藜に作業に必要な伝達以外の感情的な事を言ったのは初めてだろうかと思った。その間にも手は無意識に動き、フレームを持ち上げて動かしていた。後部の作業を終えてフレーム前部に視線を移す。
さっきまでの考え事は頭から消え、思考はフロントフォークの取り付けへと切り替えられた。
「その、出来ることがあったら手伝います」
小熊は藜を見もせずに答える。
「ボールレース」
藜は昨日買ってきた部品を詰め込んだスーパーのレジカゴを探り、小さな袋を取り出した。袋の封を切って小熊に渡す。
今の藜に出来ることは、小熊の言う通りの工具を出すこと。ボールレースは工具ではなく部品名だけど、昨日藜自身が買ってきた物なので名前は知っていた。
小熊はリング状の金属部品を手に取りながら言う。
「あなたに整備を教えることはしないし、そんな余力は無い。知りたければ勝手に見て」
そう言った小熊は、藜に大型のマイナスドライバーを取り出させた。
フレームに打ちこまれたボールレースにマイナスドライバーを当て、ハンマーでドライバーの尻を叩く。
ボールレースの全周をまんべんなく叩き、少しづつ外しながら、小熊は話し始めた。
「この部品はハンドル回転軸のベアリングを保持する物。事故車や扱いの悪いバイクはここが変形、損傷してハンドル操作の感触がおかしくなる。中古バイクの買い付け屋が真っ先に見る場所のうちの一つ」
藜は目を見開いて小熊の手元を凝視している。叩き外されたボールレースがカランと床に落ちた。小熊は新しいボールレースを手にしながら話し続ける。
「交換には特殊工具が必要だけど、ハンマーとマイナスドライバーで代用できる」
藜によく見えるよう作業姿勢を少し変えた小熊は、新品のボールレースをステムに当てて、ハンマーで打ち込み始める。
金属が打ち合わされるリズミカルな音がコンテナ物置の中に響く。途中で、乾いた破裂音のようなものが加わった。
「あ」
ステムに打ち込まれたボールレースにヒビが入っていた。
小熊は以前にカブ仲間から聞いた話を今さらながら思い出した。薄い鋼で割れやすいボールレースの打ち込みは、カブ整備の中でも比較的難易度が高い。
小熊は割れたボールレースを叩き外しながら言った。
「今のは悪い見本」
ボールレースの打ち込みが出来ないことにはフロントフォークの取り付けも出来ない。工具を置いた小熊は藜を振り返って言った。
「今から部販に行って買ってきて。二セット」
藜は「ハイ!」と言って立ち上がる。昨日は知らない場所に知らない物を買いに行く緊張で震えていた藜が、今は自分でも役に立てる仕事を言い付けられて嬉しそうにしているように見えた。
ペットボトルに水道の水を満たした藜は、ずっと肌身離さず持ち歩いていたトランクを引き寄せた。昨日は大量の部品を買って帰るためトランクを持っていたが、今日の買い物はボールレース二つ。藜は一度手に取ったトランクをコンテナ物置の隅に戻し、ペットボトルの水だけを持っていく。
「あの、自転車借ります」
小熊は頷きながら不思議な気分だった。一人ではどこにも行けず、空っぽのトランクを肌身離さなかった藜が変わろうとしている。
それが、小熊の心中に奇妙な感情を芽生えさせていた。
この自分少年を、自分の色に染めたいとは思わないが、もしもスーパーカブの色に染めたなら、彼はどうなるだろう。
頭を振って考え事を切り上げた小熊は、部品待ちの間に作業を進めるべく、前後のホイールを手に取った。
小熊が部品取り車から取り外した前後のホイールは、経年相応の表面の曇りは出ていたが、見た限り状態は良好だった。
タイヤとチューブを手早く取り外した小熊は、歪みと錆びを点検し、新しいタイヤとチューブを組み付ける。
外したタイヤはまだ山が残っていたが、新品に替えても通販で千数百円なので、目に見えない損傷の可能性も考えて交換した。
前後のタイヤを組み立てる作業はすぐに終わってしまった。腕時計を見ると、彼が自転車で出てから一時間少々しか経っていない。
昨日は三時間かかった。まだ時間がかかると思った小熊は、分解したまま手をつけていないエンジンの組み立てでもやろうと思い、一度伸ばした手を止めた。
今の自分には藜が居ない。使う工具の限られているホイールの整備と違って、多種類の工具を頻繁に工具箱から出し入れするエンジンの組み立ては、工具を渡す作業を受け持つ藜が居ないと効率が落ちるだろう。エンジン自体も重量があって、持ち上げるには人の手があったほうがいい。
それに、小熊はエンジンの組み立て作業を藜に見せておきたかった。ピンポン玉ほどのピストンが上下動するだけのエンジンが、この世のあらゆる移動機械より強力で優秀なスーパーカブの心臓となる様を見れば、あの藜という少年もまた自分自身のちっぽけな体でやれる事、やりたい事を知ることが出来るかもしれない。
一人で作業していると取り止めも無い考え事が増えてくる。そう思った小熊は工具を置いて外に出る。晴天の陽光を浴びて背伸びをした小熊は、散歩でもしようと思い、自宅前の道路を歩き始める。
家から十数mの場所にある曲がり角にさしかかった。そこからは駅へとまっすぐ北上する長い下り坂になっている。カブに乗っていると意識しないが、自転車では往路は快適でも帰路は面倒な坂道。
小熊が曲がり角で立ち止まっていると、一台の自転車が左右にふらつきながら登ってきた。小熊の自転車。乗っているのは藜。腕時計を見ると彼が家を出てから一時間少々。
大幅に短縮された買い物の時間だけでなく、藜の姿もまた昨日とは変わっていた。
秋とはいえまだ残暑の残る日差しの下、貰い物のジャージの上着を脱いだ藜は、体育シャツの袖をまくった上半身を汗で光らせながら自転車を漕いでいた。細く脆そうな印象だった腕には少し肉がついたように見える。
昨日は息を切らしながら坂を登っていた藜が、規則的な呼吸でペダルを漕いでいる姿を見た小熊は、やっぱりカブのエンジンを組み立てる時には、彼が居たほうがいいと確信した。
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