第25話 報酬

 上り坂の頂上で、藜は自転車を止めた。

 全身に汗をかき、息を切らした藜は、ジャージのポケットに手を走らせながら小熊に言う。

「ボールレース二セット、買ってきました」 

 昨日パーツを買いに行った時、藜は小熊から預かったスマホを、落とし物をしやすいジャージのポケットに入れることを嫌いトランクにしまっていた。

 今日の買い物はトランクが必要なほど嵩張るものではない。この藜という少年は、小熊がバイクの世界でも時々出会った、仕事の単位が小さくなると途端に手を抜き、注意を疎かにするタイプかと思った。

 小熊に対して半身になっていた藜がポケットから何かを剥がした。銀色のダクトテープ。どうやら藜はジャージのポケットをダクトテープで塞いで、小熊から頼まれた買い物を絶対に落とさないようにしていたらしい。


 小熊がテープを指差して聞いた。

「これは?」

 昨日はサドルの高すぎる自転車に無理して跨っていた藜は、今では自分の物であるかのように慣れた仕草で乗りながら答える。

「部販のおばさんに頼んで分けて貰ったんです。この自転車も」 

 サドルは小熊より少し背が低い藜に合わせて調整されていた。昨日よりうまく自転車に乗っていたのはこのせいかもしれない。

 坂の頂上から家までの十数mの距離、自転車を押す藜は小熊と二人で並んで歩きながら言う。

「あの、すみません。勝手に変えちゃって。戻し方も教えてもらったから」

 小熊は自転車を押す藜のジャージズボンからテープを剥がしながら言う。

「そのままでいい。それからダクトテープ、もっと必要なら物置の棚にあるから、使ってかまわない」

 

 小熊が作業を再開するためコンテナ物置に入ると、自転車を縁側の前に停めた藜が続いて入ってくる。小熊は外を指差しながら言った。

「先にシャワーを浴びてきて」

 藜は自分の腕に鼻を近づけてクンと匂いを嗅ぎ、少し顔を赤らめながら頷いた。

 汗まみれで作業をされたらあまりいい気分はしないし、小熊自身の経験則から、疲れる作業を終えた後はシャワーで心身をリフレッシュさせたほうが集中力が持続する。この季節まだ多い虫さされの痒みを押さえる効果もある。

 セッケンで貰い集めてきた古着から替えのジャージとシャツ、ブリーフ、霊園の粗品らしきタオル、セッケン謹製の石鹸を手に取った藜は、外水道とホース付きのシャワーヘッドを繋ぎ、フラフープにナイロン布がついたようなシャワーカーテンを組み立て始める。


 藜がシャワーを浴びている間、小熊は買ってきた部品の検品をする。とはいってもボールレースのみ、特にチェックするようなところが無い。ツケ払いの納品書も一瞥したら終わり。

 小熊は、部屋の中に漂う匂いに気付いた。オイルとケミカルに混じった、ごく微かな異質の匂い。髪も肌も声も、存在感までもが淡く儚く、体臭というものなど無いような藜が発した、彼が生きている証明のような香り。

 カブがガソリンとオイルの燃える匂いを発しながら前へ進むように、一人の人間が生きようと力を尽くしている香りは、小熊にとって悪臭ではなかった。


 水のシャワーを浴びた藜が、新しいジャージに着替えたところで、小熊は作業を再開した。

 薄くグリスを塗ったステムにリング状のボールレースを当てた小熊は、後ろに居る藜に伝えた。

「ソケット、二十六mm」

 工具箱を探った藜は、バイクより住宅か橋梁の鉄骨にでも使うような特大のソケットを差し出した。

 小熊はスーパーカブに使われている最も大きいボルトよりも大きなサイズのソケットを手にしながら、藜に説明する。

「メタルやリングを打ち込む時には、同じ径のソケットや古いメタルを重ねて、その上から打ち込む」

 そうすればハンマーで直に打つよりも衝撃が分散され、打ち込む部品を損傷したり歪みが発生したりする可能性は低くなる。小熊は言わないでおこうと思ったことを言い添えた。

「さっきはそれを怠っていたから割れた」

 藜に見せるように、小熊はハンマーでボールレースの上に当てたソケットを叩いた。教科書通りにやっても割れやすい部品を、さっきより慎重に打ち込む。金属が金属がぶつかり、摺り動く様がハンマーを通して伝わってきた。

 小熊は音と感触に神経を集中していた。歪みや装着不良を起こすと操縦性の悪化に直結するボールレースをステムの穴に定着させなくてはならないが、叩き過ぎると変形を起こす恐れがある。

 それらの慎重な作業に必要な技術は礼子から教わった。礼子は言っていた。音でわかると。


 ボルトの締め加減はトルクレンチが最良の数値を示してくれる。でもハンマーの使い方だけは数をこなさないとわからない。小熊はそのことを藜に伝えようとしたが、口を閉じて打ち込み作業に集中した。こんな事は油圧プレス等の専用器具を持たない趣味のバイク整備でしか役に立たない技術だし、今度こそ藜にいい見本を見せたいという気持ちもあった。

 音だけでなく感触だけでなく、五感から伝わる総合情報のようなもので、小熊は叩く対象が変わったことに気付いた。浅く挿された部品じゃなく、しっかりと定着した物を叩く感触。

 一つ息を吐いた小熊はフレームを置き、目視と指で点検した。異常無し。


 ステムの両端に装着されるボールレース。上部の打ち込みが終わった小熊は、下端の打ち込みもすべくフレームをひっくり返した。

 同じ作業の繰り返しで、特に追加で必要になる工具は無い。小熊はただ後ろに座っているだけの藜を振り返って言った。

「やってみる?」

 藜は信じられないような顔で小熊を見る。小熊はさっさと立ち上がり、作業中に座っているオイルの二十リットル缶を藜に譲った。

 藜の背後に回り、工具箱を探った小熊は、以前買ったきりまだ使っていないハンマーを取り出した。工具は人に借りてはいけないという小熊の言葉を思い出したらしき藜は、まだ新しいハンマーにそっと手を伸ばす。

 藜は手元のハンマーと目の前のフレーム、そして自分が買ってきたボールレースを交互に見ている。小熊は藜に言った。

「午前の作業はそれで終わり。やらないと昼ご飯を食べられない」

 藜は昨日買い物に行かせた時よりも緊張した顔で言った。

「あの、もし間違ったことをしていたら教えてください」

 小熊は蓋を閉じた工具箱に腰掛けながら言った。

「もちろんそうする」

 ひとつ息を吸った藜は、そっとボールレースを手に掴んだ。


 小熊は不精や好奇心で藜に作業をやらせたわけではなかった。このまま工具出しと買い物だけをやらせるだけでは、彼をここに置いている意味は無い。

 ただでさえ礼子に逃げられた現状で、藜にも少々の作業くらい出来ないことには、あと数日で修復作業を終わらせることは出来ないだろう。

 無理なこと、リスクの高いことをさせているわけでなない。ボールレースの打ち込み作業中、小熊は確かに気付いた。藜は小熊より一瞬早く、音の変化に気付いたかのような反応を見せていた。もしかしたらこの少年に何らかの適性があるのかもしれない。

 藜は小熊を習うようにボールレースをステムの穴に当て、ソケットを乗せてハンマーで叩き始めた。持ち手がハンマーの根元に近すぎると思った途端、乾いた音が聞こえる。

「すみません、あの、割っちゃいました」

 小熊はしゃがみこみ、床に置かれた部品を拾い上げながら言った。

「もう1セットある。割ったらまた買いにいけばいい」

 小熊はそう言いながらハンマーを握る藜の手に自分の手を添え、持ち手をハンマーの端に動かした。その位置なら根元を持つより自然な打撃を与えられる


 割れたボールレースをマイナスドライバーで叩き外した藜は、新しいボールレースを打ち込み始めた。音が変わる感触。今度は同時に気付いた。藜は小熊を振り返って言った。

「出来ました」

 フレームを手に取り、ステムとボールレースを見た小熊は一つ頷いてから言った。

「午前の作業は終わり。昼ご飯を食べて午後の作業は一時から」

 小熊はそう言ってから、藜が時間を見る物を持っていないことに気付いた。自分の手首に巻かれていたカシオのデジタル時計を外し、藜に放り投げる。

「あの、お借りします」

 藜は日本中どこでも千円で売っているカシオを大事そうに抱えた。

「いらない、あげる」

 それだけ言った小熊は、昼食を済ませるべくコンテナ物置を出た。

 ステム打ち替えの工賃が中古の千円カシオ、まぁ悪くない。

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