第43話 賢明なる赤子
小熊は呆れた表情で礼子の顔を見た。
「どのツラ下げて」
礼子は形だけ申し訳無さそうな顔をしていたが、目の前にチリを盛られた深皿を置かれると、嬉しそうな顔でチリに割ったクラッカーとチーズを乗せながら言う。
「いやまぁ、人手は足りてたみたいだし」
礼子の視線の先には、修復と試走を終えた小熊のカブ。
「来たからにはしっかり働いて貰う。今度はちょっと面倒」
小熊はコンテナ物置の奥を指差す。礼子は部品の山を見て口笛を吹いた。
「これを直して、あんたが乗るの?こっちのピカピカのカブは少年にプレゼントしてさ」
小熊は説明するの面倒臭くなった。ペイジと春目は肩を震わせて忍び笑いしている。藜が困ったような顔で言った。
「あの、逆です」
礼子の目が丸くなった。小熊のカブや部品取り車から取り外されたパーツの状態は礼子もよく知っていて、エンジンは礼子自身が組み直し、せいぜいあと千km走ればいいほうだと確かめた。
コンテナ物置に入り、しゃがみこんで部品を見ていたペイジが言う。
「レイちゃんこんなん直して乗ったら死ぬぞ。あたしが話つけてやるから、こっちの上物を貰っちまえ」
春目は藜の手を取りながら言う
「もっとちゃんとしたのを買い直したほうがいいよ、た、足りないならお姉さんが出してあげるから!」
二人に迫られても以前ほど困惑した様子を見せていない藜は、カブの部品に指先で触れながら言う。
「確かに死ぬような目に遭うかもしれません」
それから、藜が小熊と共に修復したカブを見て言う。
「でもきっと僕は知ることになる。人はそう簡単に死なないことを」
藜は胸を張って答えた。
「だから僕はこのカブでないといけないんです」
竹千代が、また小熊の見たことの無い呆けたような目をしている。
礼子はチリをお替りしながら笑っている。小熊は藜より、奥に積まれた部品の山を見ながら言った。
「これからあんたは、その言葉の甘さを身をもって知ることになる」
チリの夕食が終わった後も、作業の手伝いや炊き出しと称して居座ろうとするペイジと春目を連れて、竹千代は小熊の家からおいとますることを告げた。
帰り際に竹千代は小熊に言った。
「彼がここを旅立つ時には、ぜひ見送らせてもらう」
食後の休憩を取りたそうな礼子に作業用のツナギを投げつけた小熊は、自分のツナギに袖を通しながら言う。
「あんたのことだ、来るなって言っても来る」
褒め言葉でも貰ったような顔で快活に笑った竹千代は、藜に手を差し出した。
「私達に出来ることはここまでだ。頑張ってくれたまえ」
俯いた藜は、竹千代を見てもう一度視線を下げながら言う。
「僕は自分の力で生きていくと言いながら、結局はあなたや小熊さんの助けを得てここまで来ました。この情けない気持ちを忘れません」
竹千代は指先で握るだけの握手をする藜の手に、強い力でしっかりと握ることを促すように力をこめる。
「人は方向性さえ間違っていなければいいんだ。目標の達成率など後で幾らでも上げられる」
藜はここ数日の作業で強くなった握力で、竹千代の手をしっかりと握り返した。それまで悠然とした態度だった竹千代が、彼女には稀な戸惑いの表情を見せた。少し顔を赤らめながら手を引っ込める。
二人のやりとりが妙に気に入らなくなった小熊は、藜の両肩を掴んで竹千代から引き剥がしながら言う。
「やりかたさえ間違ってなければ仕事が甘くてもいい。そんな気持ちでカブに乗ったら転んで痛い思いをすることになる」
しょっちゅうそういう事をしている人間を一人知っていると思いながら、小熊は何か目新しいパーツをつけてはそれが原因のトラブルや事故を起こしているハンターカブを見た。
藜に握られた手をしばらく見つめていた竹千代は、小熊が今まで見たことの無い、何かに縋るような目を藜に向けたように見えた。
小熊が少し前から抱いていた疑念が確信に変わる。竹千代の見返りが不確かなままの助力。この女にはあまりにも無縁なことだったので想像出来なかったが、それは女が男に抱く気持ち。
この外見と能力に恵まれ、何でも出来るかのような女は、ただ一つ、人にとって最も重要なスキルの一つ、自身の想う相手の獲得という事に関しては、どうしようもないほど不器用で、とにかく自分の持っている物を何でもあげることしか、相手を振り向かせる方法を知らない。
きっと竹千代は藜がちょっと目を潤ませて頼めば、私物も財布も二人の手下も、着ている物さえ全て渡すだろう。しかし、その中身を差し出す方法に関しては、生まれたばかりの子供のように何も知らない。
赤子が母の愛を受ける仕草を覚えるように、竹千代も彼女なりに方法を考えた結果、小熊は将を射る前の馬にされてしまった。
竹千代の想いに気付いていないのか、それとも無意識にそれを利用しているのか、藜は普段着と作業着を兼ねたジャージのジッパーを首元まで締め、小熊に向かって言った。
「では始めましょうか」
共学ながら男子の多い定時制高校を探し出し、婆さんしか居ない職場を斡旋し、女性客が意外と多いという予想外の事態に対して、小熊を唆し牽制させるような真似までした竹千代が、一つだけ分かっていなかったことがある
藜が自らの馬に選んだのは小熊ではなく、このカブだということ。
作業を始める小熊に半ば追い出されるような形で、竹千代と春目、ペイジは軽バンに乗って帰って行った。
竹千代は帰り際、小熊にぽつりと言った。
「機が熟したら、わたしは帰らなくてはならない。後妻に乗っ取られた家を取り戻すために、その時は我がセッケンの仲間たちのことを頼む」
愛知の由緒正しき名門に生まれ、十五才で家を出奔した竹千代が、小熊に接近してきたのにはもう一つ理由があったらしい。どちらにせよ、春目とペイジ、彼女らに続く新たなるケチ女のような厄介者を束ねる部長代行なんてまっぴらごめんだった。
小熊は一言だけ答えた。
「報酬次第」
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