第40話 選任
数枚の万札を現実感の無い様子で眺めていた藜に、小熊は聞いた。
「そのお金を何に使うの?」
トランク一つにしては多額の現金をポンと払った竹千代が口を挟んだ。
「彼の新しい暮らしさ。仕事に関しては私の伝手で住み込みの働き口が見つかりそうだが、食器や寝具を揃えなくてはいけない」
以前から余計なことを言い、余計なことをする竹千代がいつもに増して煩わしかった。小熊が聞きたいのは藜の答え。
札を握りしめていた彼は席を立ち、すぐ後ろのコンテナ物置の、開け放たれた戸の前で口を開く。
「小熊さんにお願いがあります」
自分に利益のある頼みしか聞く気が無い。小熊はそういう表情を作るのに苦労した。
「僕にこのカブを売ってください」
頷きかけた小熊は、藜の指したしたものを見て息を呑んだ。
彼が売ってほしいと言ったのは、物置の奥に積み上げられた部品。カブから外された、廃棄する予定の破損部品の山。
藜になら完成した自分のカブを譲ってもいい。そう思いかけた小熊は、藜の考えを理解できず聞き返す。
「何の積もり?」
藜はコンテナ物置の床にしゃがみこみ、歪んでスポークの折れた後輪を拾い上げながら言った。
「小熊さんはカブを直すため、部品取りのカブを一万円で買った」
小熊が修復のため入手した部品取りのカブは、エンジンとフレームが損傷していた。今になってみると一万円は少し高価かったかなと思った。
「これを僕に一万円で売ってください」
藜は小熊の前に一万円札を一枚置いた。小熊には彼の考えが少しわかった。でも、それは不可能なこと。
「この部品はみんな死んでる。買ったところで、カブにはならないよ」
藜はフレームを持ち上げる。修復を始めた頃の藜はもっと小さな部品さえ一人では持てなかった。今は小熊でも持つのに苦労している重い鉄のフレームを難なく持っている。
「僕にはそうは思えません。まだ直せる」
藜が手にしているフレームは、見た目は形になっているが、事故による損傷で目に見えぬ歪みやヒビが入っている。
「あんたは勘違いしている。今までやったことは部品を揃えて組むだけ。組み立てキットの家具と同じ、それを直すのは木を切り出して家具を作るより難しい」
小熊が目の前に置かれた一万円札を藜に押し返そうとした。その万札の上に、藜は残りの札を乗せた。
「僕には直せないことぐらいわかっています。だから、直すことの出来る人間を選任します」
藜はトランクを売って得た金を全て小熊に叩き付けながら言った。
「小熊さん、僕はあなたを雇います」
小熊は呆れた。自分の大切な物を売って人生を立て直そうとしていると思ったら、その金を全てカブに使うという。
「ずっと走り続けるカブでなくていいんです。今はその学校まで走ってくれれば、そこから少しずつ直していきます」
スーパーカブや、カブと共通のエンジンを持つレジャーバイクのモンキーには、そういう維持の方法があると聞いたことがある。とりあえず何とか走る状態の車両を手に入れて、ローンを組むように月々の稼ぎの中で捻出したパーツ代で直していく、部品流通が潤沢なカブにしか出来ない方法。
「どうしてもこのカブがいいの?」
藜の目に迷いは無い。もし小熊が断れば、力ずくで部品を奪い取って行きそうにさえ見える。
「このカブが必要なんです。僕がただ生きていくのではなく、どうやって生きていけばいいかを知るために」
小熊は自分の心臓が鼓動を打つのを感じた。藜と同じ年齢の頃に小熊はカブと出会った。それ以降、カブはただの実用品ではなく、自分自身の方向性を示してくれるものだった。
小熊が得たものを藜もまた必要としている。
「まずは原付の免許を取りなさい。落ちたらそこで終わりだと思って、一回で合格すること」
小熊は自分の前に置かれた万札を全て藜に渡した。
小熊は部屋に入り、机の下から二冊の本を出した
一つは小熊自身が免許を取る時に貰った試験問題集。もう一つは小熊の暮らす多摩地区の地図帳。
基本的にスマホのGPS機能を紙の地図の補助として考えている小熊が、大学のある町田に引っ越してきた時に、自宅周辺をカブで走り回るために買った物。
地図をめくり、一枚のページを破り取った。小熊の暮らす町田北部に隣接した府中にある運転免許試験場の場所が記されている。
小熊と藜が家の中で忙しく立ち回っていると、ペイジが大窓から顔を突っ込んだ。さっき飲んだシャンパンがまだ少し残っている様子。
「原付の免許はなぁ、住民票の写しがいるぞ。あと写真と印鑑」
小熊は立ち止まった、確か藜の本籍地は北海道の札幌。
さっき藜から買い取ったトランクを調べていた竹千代が、内部のポケットに入れっぱなしのジップロック袋を取り出して言う。
「それなら心配ない」
小熊は竹千代の差し出した袋を受け取る。藜がトランクにしまっていた身分証明書。中身を取り出して戸籍謄本を見ると、彼の本籍は北海道だったが、現住所は町田市。小熊が現在暮らす家。
「君の母上はとても手回しがいいようだ」
小熊の母親は最初から藜を押し付ける積もりだったに違いない。小熊はもう自分の母親を殴り飛ばしてやりたくなったのは何度目か覚えていないが、その力は少し手加減してもいいと思った。
戸籍謄本を戻したジップロック袋を藜に渡した小熊は、市役所支所のある場所の地図をもう一枚破ろうとして手を止めた。
藜がこれから原付免許の試験を受けに行くのは府中。市役所の本庁や支所は逆方向。地図で見ても距離の離れた二箇所の行き先は、実際は山越えの急坂があってもっと遠い。
ランチというよりブランチに近い時間にバーベキューを始めたため、時間はまだ正午の少し前だが、これから自転車で市役所に行っていては。小熊の記憶では午後一時から始まる試験申請に間に合わない。
車を使うにも、運転手のペイジは酔っ払っていて役に立たない。小熊が替わりに運転しても昼の混雑の中をこれほど距離を短時間で走り抜くのは不可能だろう。
小熊は思案した。今日の午後に無理なスケジュールで行って不合格になれば無駄金が飛ぶ。明日なら今夜のうちに試験勉強を終え、無理なく免許を取れるだろう。
何かをする時には動く前に準備を重ねる。藜のこれからの人生に必要なのはそういうことかもしれない。そんな言い訳が頭に浮かんできた小熊の横に、いつのまにか藜が居た。
小熊が手にしている地図を指で追って、自分が持っている地図と見比べていた藜は、さっき小熊から受け取った身分証明の入ったジップロック袋を小熊に押し付けた。
「僕は試験場に向かいます。小熊さんは僕の替わりに役所まで行って、住民票を取ってきてください」
小熊は体内の血流が早くなっていくのがわかった。今まで小熊は、藜に無理難題を押し付け、試す立場だったが、今は違う。試されているのは自分自身。
小熊は壁にかけてあったライディングジャケットを手に取り、袖に通しながら言った。
「午後一時に試験場の窓口前に居なさい。待っている間に試験問題を頭に叩き込むこと」
教本と地図を手に持ったままの藜が、もう自分のカバンを持っていないことに気付いた小熊は、高校の時にヘルメットを入れるため自分で作った厚布の巾着袋を藜に渡した。
藜が持ち物を中に入れていると、春目が大窓のところまでやってきて、手に持っていた物を藜に差し出す。
「今日も少し暑いからお水を持って行ったほうがいいわよ。それからこれはお腹が減ったら食べて」
焼酎の空き瓶らしき、平べったい形のペットボトルとチョコレート菓子を渡された藜は、春目に頭を下げる。
ペイジが包み紙の裏にボールペンで何かを書き、藜にペンごと渡す。
「写真と印鑑も忘れんなよ。試験場の近くでも売ってるけど、そこで買い逃したら詰むから途中の駅前で買ったほうがいい」
申請に必要なものを列記したメモと、何かの申請をする時に意外と必需品となるボールペン。役所で借りるのは当てにならないし、時に使用者が列を作っていて待たされることさえある。藜はメモとペンも大事そうに巾着袋に仕舞う。
小熊はヘルメットとグローブを着け、カブのエンジンをかけた。修復して最初の試走がこんなに慌しいものになるとは思わなかったが、目的も行き先も無い走りよりは退屈しなくて済むと思った。
きっと藜は自分やセッケンだけでなく、カブのことも、これからの人生とその決定を託すに足る者なのかを試している。
それならば見せてやろうと思った。
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