第11話 満身創痍
初秋の陽が沈み始め、風が涼しくなる頃に軽バンで家に帰ると、少年はドアを開け放ったコンテナ物置の中で読み物をしていた。
彼の唯一の持ち物である仔牛革のトランクに座り、シェラカップに注いだ水を飲みながら、小熊が家を出る時に渡した工具カタログを読みこんでいる。
軽バンを停めた小熊は、ただいまと言うべきか少し迷ったが、何も言わずコンテナの中に入る。
中にあるのは壊れたカブと、その修理のために揃えた道具だけ。自分の物置に入るのにノックや挨拶が必要なはずは無い。
少年が顔を上げた。何か言おうとして口が開いたので、小熊はそれを遮るように声を出した。
「今から始める。作業できるような格好に着替えて」
小熊の母のお仕着せらしきワイシャツにハーフズボン姿の藜は、小熊が目の前に置いた服を摘んだ。ついさっきセッケンで手に入れた数種類の体育ジャージ。
小熊は一緒に貰ったシャツと共に、竹千代に特に頼んで入手して貰った紙包みを置く。
包みの中身、新品の男性用ブリーフを見た少年の顔に、少し血色が顕われたような気がした。
コンテナ物置を出た小熊は、頭の中で作業内容を組み立てた。
スーパーカブを修復するため、藜という工具を導入した 作業を始めるに当たり、この目新しいツールを使う前にスペックを把握しなくてはいけない。
小熊は彼について、非常に信頼できない母から聞いた藜という名前しか知らない。あとは意志や決定力が極めて薄弱なことぐらい。年齢も出自も不明なまま。
あの少年について最低限のことぐらいは知らなくてはいけない。そう思った小熊は物置のドアを開けた。
藜はもうジャージを身につけていた。横にある木箱には、角型飯盒とシェラカップ、工具カタログと共に、今まで着ていたワイシャツとハーフズボンが折り畳まれて置かれている。
唯一の持ち物らしき革のトランクに腰掛けた少年は、指示を待つかのように小熊を見ている。
飯盒を手に取り、朝に炊いたご飯の粒が綺麗に洗い流されているのを確かめた小熊は、とりあえず彼が几帳面な性格だということは理解した。
小熊は物置の壁にかけてあったオレンジの作業用ツナギを手に取って、今着ている服の上から身につけながら藜に言った。
「作業を始める前に、私はあなたのことを知らなくてはいけない。何か身分を証明する物は持ってる?」
藜は自分に申しつけられた初めての指示に、跳ねるような勢いで立ち上がった。座っていたトランクから立ち上がり、畳まれたズボンを手に取る。
ポケットを漁った藜は、ジップロックの袋を取り出し、中身を小熊に差し出す。
渡されたのは戸籍謄本。聞いた通りの藜という名前。本籍地は北海道の札幌。父は存命だが母は十三年前に亡くなっている。生年月日も書かれていた。十五歳。あと数日で誕生日を迎える。
小熊はもう一度少年を見た。今まで小学校の高学年か中学生くらいだと思っていたが、十八歳の小熊とは三歳違うだけ。
小熊は、戸籍謄本を藜に返した。
「それは、どこか失くさないようなところに保管しておいたほうがいい」
戸籍謄本を大事そうにジップロック袋にしまった少年は頷き、肌身離さず持っていた仔牛革のトランクを開ける。
小熊が見るつもりも無く見たところ、中には何も入っていなかった。
トランク内にある収納ポケットらしきところに、身分証の入ったジップロック袋を納めた少年は、トランクを閉じて物置の隅に置いた。
小熊は作業を開始すべく工具箱を引っ張り出しながら、彼はあのトランクを売れば、当座の金を手にすることが出来るのかもしれないと思った。
母の襲来という厄難に見舞われたせいで、事故の翌々日からのスタートとなったスーパーカブの修復作業は、いい結果と悪い結果を残した。
夕方から始めた修理。まずは壊れたパーツを剥ぎ取る作業。藜の物覚えは悪くなかった。
分厚い工具カタログの内容を藜はある程度飲み込んでいて、作業をする小熊が工具の名前を言うと、その工具を差し出す。
工具には実際に作業をする人間が使う通り名や略称が、カタログに載っている正式名称と異なることが多いが、小熊が普段使っている呼び名で工具の名を言ってもわからない様子の藜は、正式名称で言い直すとその工具をツールボックスから探し出し、次からは略称で通じるようになる。
今のところ任せられるのは工具の取り出しという役割だけで、作業の迅速化や省力にはさほど役に立たなかったが、それはこれから覚えさせる仕事の範囲を広げることで、変わっていくのではないかと予感させるものだった。
少なくとも作業後の疲れた体には面倒な、後片付けと掃除でもやらせる事が出来れば、小熊の仕事はだいぶ楽になるだろう。
悪い結果は、実際に修理を行うスーパーカブの状態。
小熊は実際に修理に取り掛かるまで、カブの損傷具合を甘く見ていた部分があった。
崖からの転落で破損した部品は、補修して使える物も結構あるんじゃないかと思っていた。実際にその部品を手にするまでは。
部品は紛失したものも多く。まだ原型を留めているものも今回の事故だけでなく、それまでに使用による経年劣化で修復は困難な状態だった。
修復の予算らしき金は手元にあるにせよ、壊れた部品を全てメーカーに注文して新品を取寄せていたら大幅な赤字になる状態。当然、今の小熊にその金を出すことは出来ない。
外したパーツを並べ、チェックしては横に放り出している小熊に、手持ち無沙汰な様子の藜が、不安そうな様子で話しかけた。
「直るんですか?」
小熊はホイールのへの字に歪んだホイールリムと。折れたスポークに触れながら言った。
「ダメ。これは直らない」
藜の表情が曇る。カブを修理する間という約束で物置に住まわせる約束は、修理そのものを断念するならば成立しなくなる。
小熊は藜の心情に取り合うことなく、目の前にあるものを見ながら言った。
「でも、カブはまだ死んでいない」
部品単位で見れば直らないけど、それらの部品を取り外されたカブのエンジンとフレームは、小熊が見た限り無事だった。
車の前後を潰して乗員を守るクラッシャブル構造のように、曲がった前カゴや潰れたタイヤが、車体の基幹となる部分のダメージを最小に留めていた。当然、それに乗っていた小熊も。
修理は収支。趣味道楽で乗る希少なバイクでもない限り、新車より金をかけることは無い。このカブも通常の修理手順で見積もれば、同程度の中古車に買い替えられるくらいの金がかかる。
でも、それだけが選択肢ではない。
小熊はスマホを取り出して画面に表示された時間を見た。夜の七時前。まだ店を開けているはずと思いながら、ある番号に電話をかける。
「シノさんですか?おひさしぶりです。小熊です。ちょっとやっちゃって、部品取りを探しているんですが」
電話をかけた相手は。小熊が思った通りまだ仕事中だった。小熊が高二の時にカブを買い、以後も世話になった山梨の中古バイク屋は、小熊の知りたい事を教えてくれた。
「骨と心臓が死んでる奴でいいなら。信金落ちが一台入ってる。一枚でいいよ」
フレームとエンジンが損傷しているカブが一万円。これはツキに恵まれていると思った。
「それでいいです。明日の朝イチで」
一通りの挨拶を交わして電話を切った小熊は、まるで暗号のやりとりか何かを聞いたような顔をしている藜に言った。
「明日出かける。朝早いからもう片付けて寝るように」
世界中のあらゆるオートバイの中で、最も大量の中古パーツが流通しているスーパーカブには、こんな方法もある。
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