第20話 フレーム

 ここ数日で最も深く眠れたと思った。

 小熊がベッドから体を起こすと、すぐ横の床にシュラフで包まれたものが転がっている。

 カブで放浪している時には夜明けと共に目を覚まし、暗くなったら寝る野犬のような暮らしをしているという礼子は、一晩で野生を忘れ座敷犬になってしまったらしい。

 小熊はシャワーに行くついでに礼子を踵で蹴って起こす。部屋に泊め、食事まで出す代償として、これから数日は腑抜けた気分など忘れるような時間を過ごして貰う。いや、礼子にとってもそれは負担ではなく報酬かもしれない。


 真夏より冷たくなった水のシャワーを浴びた小熊は、デニム上下を身につけて、二度寝している礼子を爪先で揺り起こした。まだ寝足りないといった様子の礼子は渋々シュラフのジッパーを開ける。

 ワンルームの狭い台所に立った小熊と入れ替わるように、礼子がシャワールームに入る。数分後、トーストとハムエッグ、レタスとオニオンだけのサラダという、旅館かビジネスホテルのような朝食を二人で囲んだ。

 朝食を終えた小熊は外に出る。日差しはあるがそれほど暑くない乾燥した晴天。小熊がこれからやることのために、色々な条件が理想的な状態で揃いつつある。


 コンテナ倉庫を開けると、藜も朝食を終えていた。昨日飯盒で炊いたご飯の残りをお茶漬けにして食べたらしい。一合の米にカレーという昨日の朝食より藜の体調や腹加減に合っていたらしく、体が重そうだった昨日の朝よりすっきりとした顔をしている。こっちも極めて良好。

 小熊は自分のスマホを取り出し、大学の時間割を見る。今日の講義は午前中まで。今から大学に行けば、昼から作業を始められるだろう。少し考えた小熊は、スマホをベッドのあたりに投げ捨てた。


 大学は今まで出来るだけ休まないようにしていた。奨学金暮らしの小熊にとって模範的な成績と出席率はとても大事なこと。しかし今の小熊にとってそんな物はなんの意味も無い。

 バイクに溺れ人生をしくじった奴のことは、礼子や出入りのバイク屋からよく聞いている。ほんのちょっとの我慢が出来なかったばかりに、サボりの借金は増えていく。そうなることを回避しつつカブとの暮らしを楽しむのが最善の選択だろう。

 でも、それは小熊にとって理想的な人生ではない。

 今さら講義に少しくらい穴を開けたところで死ぬわけではない。今、この勢いのまま始めないと出来ないこともある。自分にとって大事なカブのため、身にまとわりつく面倒事を投げ捨てて動けないようなら、きっと自分はこれから先も大切なものに対して同じようなことをする。

 小熊はコンテナの中で、自分のカブを目の前にしながら言った。

「今から始める」


 小熊はフレームとエンジンだけになったカブと向かい合う。

 バイクの生命とも言える部分で、ここが損傷しているか否かが廃車にする判断の分かれ目になることが多い。

 このカブは足回りも外装もすべて修復不能なまでに大破したけど、目の前にあるのはバイクで、まだ鉄屑じゃない。

 とりあえず物置の中を片付けて作業スペースを確保した小熊は、次の作業工程をほんの少し躊躇した。

 私のカブは生きている。果たして本当にそうか、フレームは実際に精密な測定をしたわけではないし、エンジンはただ回るというだけ。もしかしたら見た目だけは無事に見えるカブのフレームとエンジンは、もう死んでいるのかもしれない。

 横で片付けを手伝っていた藜が声をかける。

「工具箱を出しますか?」

 小熊は頷きながらも、カブに触れられない。もしこのフレームが死んでいたら作業はそこで終わり。新品なり中古良品を取寄せれば、小熊が母からむしり取った修復費用の大半を使ってしまう。

 車もバイクも金の切れ目は維持の切れ目。他の交換が必要な部品を買い揃えるまで修理は出来ないし、その間ムダな税金を払い続けるような贅沢は許されない、カブを廃車にしてナンバーを返納しなくてはいけないかもしれない。

 

 遅れてコンテナ物置に来た礼子が、小熊の肩をポンと叩いてからカブの前に蹲る。藜に向かって言った。

「潤滑スプレーと十四ミリのメガネレンチ」

 二本のボルトを抜いただけで外れるカブのエンジンをあっという間にフレームから下ろした礼子は、コンテナの床にフレームを置いた。

「ここは平面が出てるから作業がラクだわー」

 礼子は、藜にバイク整備には見慣れぬ道具を幾つか出させた。


 水平器とノギス、建築用の水糸。いずれも百均で揃う器具を組み合わせた手製の測定器で、フレーム各所の歪みを点検した礼子は、ノギスで測れるミリ単位の歪みは出てないことを確認した。

 回転する部位以外ではそれ以上の精度は不要。あとはヒビ割れのチェック。礼子は背後に置かれた工具箱の横で待っている藜に言った。

「ハンマー」

 藜が差し出したゴムハンマーを突き返す。替わりに出したスチールハンマーをやっぱり返す。

「これは小熊のハンマー。工具は人の物を借りてはいけない。特にハンマーは絶対ダメ」

 ひとつ頷いた藜が出した三つ目のハンマーを受け取った礼子は、柄の長さや頭の重さ、打撃面の変形まで手で熟知したハンマーでフレームを叩き始める。


 叩いた衝撃が充分に響き、かつフレームにダメージを与えない力加減を意識しながらハンマーで叩き、異音が無いかを確認する。

 藜は小熊にもハンマーを差し出したが、礼子は手を振ってハンマーを工具箱に戻させる。叩いた感触と音から慎重に損傷を探る作業。二つの音源があっては聞こえるものも聞こえない。

 ただ叩くだけの作業を延々繰り返した礼子は、うっすら汗をかいていた。とりあえず全体を万遍なく叩き、異音が無いことを確認してハンマーを置く。

「こんなもんかな」

 礼子がフレームを叩いている間、小熊はエンジンを床に置き、キックレバーを動かして感触を見たり、オイル漏れを点検したりしていた。

「出来れば塗装を全部剥いて探傷したいとこだけどね」

 小熊はとりあえず無傷だということを確かめたフレームを持ち上げながら首を振った。

「そこまでやる必要はない」

 配管や住宅鉄骨、もちろん車やバイクの金属フレームのほんの僅かなひび割れも探し出す探傷用のケミカルは、ホームセンターや通販、材料屋で簡単に買えるが、そこまでやればコストは跳ね上がる。そこは妥協してタダで出来る手作業による損傷チェックで済ませるしかない。

 小熊がやっているのは希少なクラシックカーや競技車のメンテナンスじゃない。生活の実用品としてのカブを実用に足る基準に戻すための作業。現実的な判断もまた必要なこと。

 フレーム点検を終えた小熊は、次の作業に移るべく部品取り車を分解し始めた。

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