第19話 ハンターカブ

 歯磨きを終えた小熊はパジャマに着替えてラジオを切り、ベッドに入る。礼子はもうシュラフの中で寝息を立てていた。

 暗い部屋の中で小熊は考えた。自分は何を躊躇っているのか。カブを直さなくてはいけない。そのために必要な物も人も揃えた、それなのに自分は、色々と理由をつけて修理を先延ばしにしている。

 とりあえず明日の朝に作業を始めると藜に言った。それは藜だけでなく自分自身への約束。その前に疑問を晴らしておきたい。

 小熊はベッドから体を起こし、隣で寝ている礼子のシュラフを足で揺する。起こされて言葉のような唸り声のような声を上げる礼子に言った。

「ハンターカブ、少し借りる」

 シュラフごと体を起こした礼子はしばらくゴソゴソと体をまさぐっていたが、樹脂製警棒のついたキーホルダーを取り出して投げる。

「私も行く、やっぱ寝る」

 そのまま崩れ落ちた礼子からハンターカブのキーを受け取った小熊は、パジャマを脱ぎ捨てて礼子の体を跨ぐ。そのまま部屋の隅にかけてあったデニム上下を手に取った。

 小熊は自分が迷っている理由について礼子に相談しようかと少し思ったが、こんな食って寝るだけのどうしようも無い奴よりも頼もしき相談相手が居る。そう思いながら手に持ったのキーを見る。

 ヘルメットを被り、革ショートブーツを履いて外に出た小熊は、礼子のハンターカブに跨って、キーを捻りキックレバーを踏み下ろした。

 マフラーは換えられ、エンジンや車体のあちこちをカスタマイズされた礼子のハンターカブは、ほぼ無改造の小熊のカブとはだいぶ仕様が違うけど、この振動、このライディングポジション、まちがいなくカブ。小熊の鼓動に最も近い。

 それはずっと飢えていた小熊を満たすもの。


 礼子のハンターカブは何度か借りて乗ったことがあるが、相変わらず手入れの悪いカブだった。

 キックスタートをするにも、何度かレバーを動かして位置を探りながら踏み込まないと、エンジンが始動してくれない。

 アクセルを吹かさないとエンストを起こし、再始動にひどく苦労させられる。

 礼子が言うにはエンジンが冷えてる時の扱いにくさなんてどうでもいいし、あらゆる部分が全開走行のために調整されている。

 自宅前の細い生活道路から大通りに出た小熊は、ギアを上げてアクセルを回す。仕事と生活のために作られた実用バイクとは思えない加速と排気音。上半身が後ろに持っていかれそうになる。

 あっという間に後方へと流れ去る建物と街路灯。始動時の不満まで吹っ飛んでいった気がした。


 町田市の北部をほぼ東西に横切る尾根幹線道路を西へと向かった。町田街道を立体交差で越えて米軍基地の横を通り、国道十六号を南へと走る。

 途中でロードサイドのファミレスが小熊の目に入った。店内では親子らしき客が食事をしている。世の中にはあんな幸せな家族もあるんだなと思った小熊は、自分の乗っているカブを見下ろした。

 国道が混雑気味なこともあって、どんな高級車や高性能なバイクにも引けを取らぬ運動性で、道を泳いでいく赤いカブ。共に走る自分。こっちだって自らが求めるもので満たされている。特に羨む物は無い。

 それが自分のカブならもっと良かっただろう。きっと逆にどうだ羨ましいだろうという気分で、ファミレスの家族を見ていた。


 国道十六号と二四六号が交わる三重の立体交差にさしかかり、少し行き先に迷った小熊は右折車線に入り、国道二四六号線を西へと向かった。都心方面は人の密度が濃すぎる。今の小熊は一人で走りたかった。

 二四六号線を秦野で右に折れ、ヤビツ峠に入る。曲がりくねりながら山越えをする峠道で小熊は考えた。自分はカブを直す気があるのか。答えはここまでの走りで既に出ている。

 技術や経験の不足で修理が成し遂げられず、今までの行動や労力、そして出費が無為に終わることを恐れて作業開始を渋っていたけど、私にはカブが必要。苦労の多い世の中で、他人よりだいぶ不利な戦いをしなくてはいけない自分が足を踏ん張り続けるためには、自分が誇れるものが無いといけない。

 原付バイクはただの物。金を払えば買える物に頼った矜持なんて偽物かもしれない。でも、カブはただの機械でも、今までカブに乗り続け、カブによって起きたトラブルを自分の力で何とかしてきた経験は本物。

 暗く細い峠道を抜けた小熊はカブを相模原方面に向け、町田市街を経由して自分の家へと戻る。


 狭い庭にハンターカブを停めた小熊は、これからカブ修復の作業場となるコンテナを見た。

 熱帯夜はもう過ぎたが、まだ扉を閉め切ると寝苦しい夜。半開きになった扉からそっと中を窺う。既にこれからどうするかは決まった。今すぐ藜と礼子を叩き起こして作業を始める積もりだった。

 コンテナ物置の中では、ダンボールが敷かれた寝床で、シュラフに包まった藜が寝息をたてていた。

 この季節は夜の早い時間は暑く、戸を開け放っていたほうが気持ちいいけど、明け方には結構冷え込むことを思い出し、そっと扉を閉めた小熊は、自分の部屋に戻った。

  

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