第41話 免許

 身支度を終えた藜は、小熊があげたカシオのデジタル時計を一瞥し、「行ってきます」と言って自転車に乗り、そのまま走って行った。小熊もカブの暖気が終わったら、市役所支所まで急がなくてはいけない。

 昼からシャンパンを飲んだ竹千代はのんびりと立ち上がり軽バンからハンモックを取り出した。小熊の家の柱とコンテナ物置に勝手に架けてゴロリと横になっている。

 春目はカブに跨る小熊を見て遠慮がちに言う。

「あの、藜くんが戻ってくるまで、ここでお留守番をしていてもいいですか?」

 小熊はハンモックで眠り始めた竹千代を人差し指で差しながら言う。

「昼寝するならあの馬鹿みたいなことをするな。あんたはただでさえ栄養足りて無いんだから、風邪引いたら死ぬよ」

 そう言って自分の家の中にあるベッドを親指で指す。春目は風邪で死ぬという話が冗談には聞こえなかったらしく、小さな体を抱いて身震いする。


 ペイジはシャンパン一杯の酔いがまだ残っているらしく、キャンプチェアにふんぞり返りながら言う。

「あたしはもう帰るぞー、部室でサッカーの中継見るんだー」

 小熊は金髪を二つに結んだ頭を掴みながら言った。

「酒が抜けるまで乗るな」

 ペイジがへらへら笑いながら「大丈夫大丈夫」と言うので、小熊はペイジの頭を鷲掴みにして、自分のほうを向かせながら言う。

「死ぬ奴はみんなそう言う」 

 ペイジが渋々といった感じでポケットに入っていた軽バンのキーを春目に渡そうとするので、手を伸ばして小熊が預かった。ペイジは負け惜しみを言う。

「ジェームズ・ディーンより早く死なないって決めてるからな、それより長く生きようとも思わねーが」

 キーをデニムジャケットのポケットにしまった小熊は、以前チワワの頭を撫でた時と同じような感触と形をしているペイジの頭蓋骨をポンと叩いて言う。

「だったら死ぬのはポルシェを買ってからにしなさい」

 少し長めの暖気でカブのエンジン音が落ち着いてきた。ヘルメットとグローブを着けた小熊はカブに跨り、藜とは反対方向へと走り出した。


 藜の原付免許取得で、最も手こずったのは小熊が代行した住民票取得かもしれない。

 名義人との続柄に何と書こうか迷った小熊は、時間が無いこともあって半ば面倒臭くなり、正直に母の内縁夫の子だと話した。

 年は食っているが、人生の波風を食らった経験は小熊より薄そうなアルバイトの窓口係は、複雑な表情で申請書を受け取った。カウンターの奥で何やら先輩職員と話し合っている気配が伝わってきたが、厄介払いをするような感じで藜の住民票をくれた。

 市役所支所のある町田北西部から運転免許試験場のある府中まで、幹線道路を使えば間に合うか間に合わないか微妙だと思った小熊は、山越えの旧道に入る。 

 多摩の里山を抜けるほぼ信号の無い道を飛ばし、ワインディングロードを走り抜けた。 

 町田と隣市を隔てる峠の最高点近くに達した小熊は、自分が数日前に事故を起こし、カブを崖から落として大破させた道に近づいていることに気付いた。

 小熊は自分自身がつけた傷を路面に残すコーナーにカブを突っ込ませた。遊び半分だったあの時とは違う。踵と内腿で車体をしっかりと締め、車体を倒す。

 事故現場を他の幾つかのコーナーと同じように通過した小熊は、山を抜けて市街地に入る。信号の多い国道を裏道を使って避けつつ、原付免許の申請が始まる午後一時の少し前に試験場に着いた。役目を果たしたカブのシートに指先で触れる。

「よし、合格」

 小熊が試験場の建物に入り、申請受付窓口で周囲を見回すと、ベンチの一つに藜が座っていた。

 左右に緊張した面持ちの受験者が居る中で、藜は落ち着いた様子で試験問題集を見ていた。

 小熊が来ていることに気付き顔を上げた藜に、片手で持った役所の封筒で壁の時計を指しながら言った。

「ほら時間ピッタリ」

 カブならこれくらいのことは当たり前。

 

 藜は封筒から出した住民票を確認し、証明写真や申請書と共にクリアファイルに仕舞っている。受験手数料の証紙も既に買っていた。

 クリアファイルを手に取った小熊は、中から記入済みの申請用紙を取り出して一瞥し、藜に投げ渡した。藜の表情が少し険しくなる。

 カブの修復で一緒に作業をしている時、小熊は工具や部品を渡す時と放り投げる時がある。後者は何かしらの不備がある。

「この印鑑。役所や試験場は中にインクを入れるスタンプ式のハンコだと文句を言うことがある。書き直してこれを捺しなさい」

 小熊が差し出したのは、ここまでカブで来る途中で買ってきたハンコ。朱肉入れを兼ねたケースに入っている。

 カブなら普通に走れば間に合うような場所に、ギリギリの時間で到着したのには、それなりの理由がある。

 申請書を書き終えた藜がベンチを立ち、小熊が渡した藜の姓の印鑑を返そうとしたが、小熊は手に取った印鑑を藜のジャージのポケットに押し込む。

「こんな物を貰ってもしょうがない」

 小熊は今までお役所を相手に経験した何度かの申請で、窓口で書類の不備が見つかっても。窓口係の機嫌次第で、その場で訂正印を捺して書き直せば通してくれることもあるのを知っていた。

 必要な書類をもう一度確認した藜は、小熊に一礼して行列に並ぶ。

「並んでる時とか申請後の視力検査でも待ち時間は結構あるから、その間に少しでも問題集に目を通しておきなさい」

 小熊の言葉に頷いた藜は、そのまま行列に呑みこまれていった。


 その日の昼下がり、藜は真新しい免許証を持って帰って来た。

 

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