Wave

美しい相貌


 ひどく暑い日であった。雨に濡れた木々や地面は完全に乾き、昨日と打って変わった環境にライキとファリナは苦労しながら歩いていた。蒸し暑さに意識が時折朦朧とする為に、少し歩を進めては木陰で水を飲み、何とか身体に影響が出ないよう気を付けなくてはならなかった。


 ライキは無言で喉を潤してから、陽炎が揺れる道路を見つめた。一方のファリナは――虚脱感が全身を纏っているようだった。ニールマンゼの一件が二人の間に見えない亀裂を生み出していた。その亀裂を最初は埋めようとしてかファリナが何度か雑談を振るも、ライキは力無く相槌を繰り返すので、やがて彼女は沈黙したのである。


 現在彼らの歩みを支えている原動力は、ただカラクリ人形のように指示された動きを再生する「無機質な使命感」のみであった。


「……段々、魔力の匂いが強くなってきましたね、あっちの方、でしょうね――」


 久方ぶりに口を開いたのはやはりファリナだった。鼻をスンスンと動かし、彼方に見える鬱蒼とした森林を指したが――ライキの目は陽炎を見つめるだけであった。


 魔女の親子が石碑の傍で絶命した光景の記憶、それのみを彼は黙して思い出していた。ファリナの問い掛けは彼の耳を通り抜けるどころか、進入すら認められない。ファリナは沈痛な面持ちで彼の傍に座った。


 しばらくの無言が続き、ファリナは「ライキ」と呼び掛けた。返答は無かった。


「今日は……何処かでもう休みますか」


 ライキは何も答えない。「ええっと」ファリナはかぶりを振った。


「違います、違いますよ、そういう事じゃなくて……その、まだ収穫の夜が始まるには少し時間があるし、あまり無理をして歩くのも厳しいなぁって、はい、そういう事です」


 ファリナの言葉を聞いていない振りをしたライキは、その場に立ち上がって出発の準備を始めた。何て嫌な男だ、彼は思った。


「行きましょう。今日は少しでも距離を稼がないと、またいつ天気が悪くなるか分からない」


 スベリ鳥が低空で飛行するのを見つめつつ(トラデオ村に伝わる迷信に、この鳥が低く空を飛ぶと天気が悪くなる――というものがあった)、ライキはファリナが立ち上がるのを待った。一方の彼女は急き立てられながらも、何処か満足げな表情を浮かべながら、服に付いた土を払っていた。


 再び彼らは歩き出す。やはり会話は無かった。


 ファリナは変わらず彼の三歩程後ろを雛のように付いて行き、ライキは彼女を気にせず自らの歩調で歩き続ける(だが彼は時折速度を緩め、ファリナの気力を削がないよう気を付けるようになった)。


 晴天の下を旅する二人。端から見れば微笑ましく、または絵画的に美しいと表現する者もいるかもしれない。今後彼らに如何なる未来が待ち受けようとも、絶望が大口を開けて待ち受けていても、この瞬間だけは誰からも阻害されない「聖なる時間」なのだ。


 ライキは後ろのファリナを思った。彼女の願いが、思考が深く濃い霧中にあったとしても、そんな事はどうでもよいのだ。俺は彼女の力を借りているに過ぎず、また逆も然りである。互いの欲求に応え、貸し合う仲ならば、ならばこそ――。


「ファリナ」


 歩みを止めず、しかしやや減速してライキは言った。一方の彼女は「へっ」と息を吸うのに失敗したような声を上げた。


「な、何でしょうか」




 恥ずかしい、などと逃げる歳でもあるまいて? 何を臆しているのだ、ライキよ……。




 懐かしい、しわがれた声が聞こえた気がした。「分かっているよ」念じてからライキは老爺の期待に応えた。


「これからも、よろしくお願いします」


 気の利いた言葉も言い回しも無い。彼は口下手であった。だが時として単純で使い古された言葉は、技巧を凝らした台詞よりも相手に伝える感動の多寡は違い――。


「……こちらこそ、


 そして、種々の思いを含ませる事も可能であった。


 二人はこの後、小さな宿場町へ辿り着くまで言葉を殆ど交わさなかったが、ライキの表情には憂いよりも、逆に「快活さ」が多分に見られた。




「この町には飲み屋しか無いさ、お前達は何を期待してやって来たのか知らんが、ここで紹介出来るのは隣の飲み屋と向かいの飲み屋、そして少し行ったところにある飲み屋ぐらいだ」


 宿屋の主人はタバコに火を点け、大きく煙を吸ってライキを見やった。鼻からモクモクと上っていく煙は、ライキに夕暮れ時の民家を思い出させる。隣に立つファリナは置いてある汚い花瓶の埃を指で掬い、それを吹いた。


 宿場町アトネは旅人の期待をことごとく裏切る事で有名な町である。特産品や名所は無く、入れば財布に穴を開けられると有名な酒場が五、六軒あるだけだった。ライキとファリナはアトネの実情を知らずに迷い込んだ、謂わばか弱く愚かな子羊も同然である。


「そんな姉ちゃん連れて歩くのはいいが、ちょっとは旅程を考えた方が良いぞ、おい」


 お節介もいいところだとライキは思いつつも、「気を付けます」と頭を下げて鍵を受け取る。その手は何処となく逞しさに満ちていた。二人の魔女と闘い、勝利した男の手をファリナはボンヤリと見つめている。


「……あの、部屋を二つ頼んだはずですが」


 ライキの手には鍵が一つだけ握られていた。受付時の申し込みで「二部屋希望」と用紙に記入したのを彼はしっかりと憶えている。しかし主人は「それだけどよ」と欠伸混じりに答えた。


「あいにく、今日は部屋が一つしか無い。どうせ二人で旅をしているんだ、たまにはゆっくりと部屋で寝るなり抱くなりすればいいさ」


 何を言っているんだ――とライキが反論する前に、主人は「ごゆっくり」と形式上の挨拶をしてから奥の部屋へと引っ込んだ。


 この町の男は品も礼儀もあったものじゃない!


 彼はひどく憤慨しつつも、やがて一つだけの鍵を見つめて呆然とした。


 確かに二人で眠った事はある。しかしそれは山や川岸での話だ。野宿と室内とでは事情が違う、違い過ぎる……。


 一体どうすればいい? どのように動けば最善が求められるのだろうか? 女性の経験が乏しい彼にとって、ファリナとの一夜は――疚しい気持ちが無くとも――落ち着く事の出来ない魔の時間となるのは明白だった。


「……とりあえず、部屋に行きましょうか」


 先に口を開いたのはファリナだった。


 こういった時、女性は意外にも大胆になる――学校に通っていた頃、人一倍ませた友人から聞いた言葉を彼は思い出した。果たして二人は床を軋ませながら、同じ扉から同じ部屋へと入って行った。バタン、と閉まる扉が鉄格子のようだとライキは感じた。


 俺は果たしてたっぷり眠り、体力を回復する事が出来るのだろうか……不安と妙な高揚感にライキはひどく落ち着かない気分であった。


 気を紛らわせる為に鞄を置き、荷物の整理を始めたライキをファリナは不思議そうに見つめている。


 当たり前だった。出発の前に行えばよい行為を、到着後すぐに開始した彼の姿は、ファリナにとって実に奇妙で滑稽な姿に映った事だろう。しかしライキは気にせず整理を続ける、内心如何に緊張を解こうかと四苦八苦しているのを彼女に悟られぬよう、努めて冷静に振る舞わなくてはならなかった。


 部屋に二人きりという状態に狼狽えたり、ましてや喜ぶような反応をしては、高潔で偉大な旅が一気に陳腐なものへと成り下がる気がしたからだった。


 ライキの鞄整理は続く、彼がようやく落ち着きを取り戻したのは、椅子に座るファリナがうたた寝を始めた頃と同じであった。


 スースー……と小さな寝息を立てる彼女の顔を、ライキは頬杖を突いて見つめた。




 絵になりそうなくらいに綺麗だな。




 ライキは一人赤面し、今度は食料の在庫確認を始めたのである。終わりも意味も無い雑務、それだけが彼の精神を安定させる薬だった。

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