豹変

 森林の中は異様な程に涼しく、決して木陰が多いだけではないとライキは感じた。尖る神経を強制的になだめるような森の空気は、悩める人間を迎え入れるのに相応しい効能であった。


「歩きづらかったら言ってくださいね」


「はい、ありがとうございます」


 後ろのファリナを気遣うライキであったが、仮に彼女が「歩きづらい」と申し出た際の策を用意していない事に気付いた。


 鞄を背負っている状態ではファリナを背負う事が出来ない、ならば抱きかかえて行くしか――。


「ライキ? 足取りが重たそうですが……」


 日に何度も訪れる「邪念」が彼を悩ませた。昨晩から俺の心に何かが起きたらしい――顔をしかめながらも、その何かの正体は予想が付いていたライキであった。


 天上の太陽が刻々と沈んで行くが、元から薄暗い森の中では然程に気にする事ではない。二人は奥へ奥へと突き進んで行った。果たして開けた場所に辿り着いたライキとファリナは、目の前に広がる光景に圧倒されて立ち尽くした。


 逓所の男が語った通りに、森の中に幾つもの墓石が建っていたからだ。


 古びてはいるものの、を残しているそれらの下には、救いを求めてやって来た「旅人」が安らかに眠っているに違いなかった。


「本当に墓石が……しかもこんなにあるなんて……」


 ファリナは辺りを見渡しながらも、まだ眼前の光景を受け入れられないようであった。ライキは墓石の周りにフワフワと浮遊している綿雪のようなものを認め、それはファリナが刀に変化する際に現れる魔力「自体」だと推測した。


 薄暗くも何処か温かな雰囲気に包まれた墓場、死者を悼むように浮遊するオガルゥの魔力……。


 それらはいつの間にかこの世ならざる場所へと転移してしまったのでは――とライキを錯覚させた。


「……誘われていますね、『こちらまで来なさい』と呼んでいるよう……」


 ファリナは綿雪の一つを指先で突くと、それは風に吹かれた綿毛のように何処かへと飛んで行った。すると他の魔力も一気に上空へと飛び上がり、整然として地面に着地し――果たして二人を誘うような道が現れた。


「ファリナ、近くにいてください」


 ライキの呼び掛けよりも早く、ファリナは彼の手を取る。ハッとしてライキは振り返ると、ファリナは微笑んで手を握った。


「ここにいます」


 光る道は、森の更なる奥へと続いていた……。




 不思議な光景であった。


 二人が道を進むにつれ、彼らの歩き去った場所から魔力が飛び上がり、行く先の地面に着地して再び道を造るのであった。


 明らかな意思を感じさせる魔力群に、二人は決して警戒を解く事は無かった。強く握られた二つの手だけが、互いを安堵させる接合点なのである。


「ここ……でしょうか」


 ライキが指差す先には、辺境のトラデオにも無いような、小さくそして粗末な家が一件建っていた。しかしその家からはニールマンゼの時のように焦燥感や殺意は感じられず、柔和な雰囲気が漂っている。


 二人が家に近付こうとしたその矢先であった。


「お入りなさい」


 家の中から声が聞こえた。驚きを隠せない二人を出迎えるように、扉が軋みながら一人でに開いた。


、どうぞいらっしゃい」


 信じられないとライキは訝しんだ瞬間、「ボク、怖がる事は無いわ」と声がした。


「行きましょう、ライキ」


 ファリナの握る力が強まった。意を決してライキはファリナと連れ添い中に入ると、そこには寝床で横たわる女性が、二人を嬉しそうに見つめていた。


「久しぶりね、ファリナ。……本当に久しぶり、元気そうで良かったわ」


 一通りの魔術を扱い、創造を得意とした魔女オガルゥ――ライキは彼女の風貌がファリナから伝え聞いた情報と大きく乖離しているのを否定出来なかった。


 毛布を身体に掛けている彼女の顔は痩せ、肌は青白く見るからに何らかの病を感じさせた。


「オガルゥ……でしょう? 一体どうしてこのような……」


 狼狽えるファリナにオガルゥは微笑みを絶やさず、「とりあえず座って?」と枕元の杖を宙で振るうと、椅子が二脚、浮遊しながら二人の元へやって来た。


「どうぞ、毒も針も何も無い、ただの椅子そのものだから」


 促されるままに腰を下ろす二人は、この時ようやく手を離した。その様子を見ていたオガルゥはクスクスと笑った。


「嬉しいわ、ファリナ。貴女にも殿がいるようで……」


「ち、違います――」


「それで、今の私について聞きたいのよね?」


 オガルゥの言葉に翻弄されるファリナは、ばつの悪そうな顔で彼女を睨んだ。その視線すらも楽しんでいるようで、オガルゥは柔和な微笑みを絶やさなかった。


「はい、実はこの森の事を人から聞いて――」


「真意を確かめたいと?」


 ライキは頷いた。オガルゥは再び杖を振るうと、今度は熱い茶の入った瓶が何処からともなく現れ、ライキとファリナの膝を巣として認知している鳥のように、フワリと静かに着地した。


「お飲みなさい、心が落ち着くわ。――ボクの調と同じ効果よ」


 脳内に雷撃を受けたような感覚であった。ジリから教えられた「心に平静を呼び戻す術」を、彼はトラデオのみに伝わるものだと信じていた。それを何故オガルゥは知っているのか?


「ど、どうして調心を……!」


 その刹那、隣のファリナは絶望に満ちた顔を浮かべたが……ライキはそれに気付かない。


「それはね、別名『練魔術』と言うのよ。自身の心に燃え盛る篝火を投影し、その炎をなだめるもの……。ボクは知らないだろうけど、もたらす効果は心の静寂化ともう一つあるのよ?」


「調心に効果が二つ?」


「そうよ、もう一つは


 オガルゥの柔らかな視線に、一瞬だけ非難の色が差したのをライキは感じ取った。何故オガルゥは説明をファリナに譲ったのか、また目に差した非難の色は如何なる理由があるのだろうか?


 その答えは隣のファリナが握っているに違いない――ライキは隣を振り向いた瞬間、息が詰まるような感覚を覚えた。




 今にも絶命しそうな程に、顔を青く染めて怯える彼女がいた。




「ど、どうしたんですか――」


「さぁ、答えなさいファリナ。その程度の覚悟で、?」


 詰問するような声色でオガルゥは言った。


 彼女は自らに迫る危機を、既に感じ取っていたのだ!


 恐るべき魔女であった。しかし彼女は微塵も恐怖を感じていない様子で、むしろ恐怖に襲われているのは――。


「ら、ライキ……私は……私は……」


 震えた彼女の声。それは聞く側すらも負の感情で満たしてしまうかの如く、絶望という暗黒から伸びる悪魔の手であった。


「……ファリナ?」


 俯く彼女の背中から、禍々しい怨嗟の念が立ち上るように思えたライキは、「そんなはずは無い」と目を閉じて再び開けると、その光景は何処にも見当たらなかった。勘違いか――彼は思った。




「……調心には、もう一つ…………『魔力増強』の効果があります……」




 混沌たる沼の底から聞こえるような、そのか細く鬱々とした声は、まるでファリナの皮を被った「何者か」が発しているようだった。


「魔力の増強……? それが一体どうしたのですか?」


 ライキはファリナの返答を待ったが、彼女は黙したまま何も答えなかった。美しかった顔は悲壮に溢れ、一気に老け込んだような印象すら受けた。


「……ファリナ。私はどうして貴女にこのような仕打ちをするか分かる? 決して貴女を憎く思っている訳ではないの、でもね、でも……」


 言葉を詰まらせたオガルゥは初めて真顔になり、沈黙するファリナに語り掛けた。


「そのやり方では、貴女の願う『母』にはなれないわ。いいえ、もっと別な――そう、『鬼母』に成り果ててしまう――」


「黙れぇっ!」


 ライキは耳を疑った。


 突如として怒鳴り声を上げたのは、すぐ傍に座る温厚なファリナだったのだ。


 彼女は立ち上がり、憤怒の形相でオガルゥの元へ歩み寄り、そのまま胸ぐらを掴み上げた。


「ファリナ! 何をしているんですか!」


 しかし彼女はライキの声を無視し、なおもオガルゥに詰め寄った。


「私は違う、違うんだ! 貴女に何が分かる? 私が今までどんなに心を殺して、どれ程努力してここまで来たのか、分かってたまるか!」


 対するオガルゥは一切取り乱さず、静かに答えた。


「でも、そこのボクには知った事ではないわ」


 ピシャリ、と肉を打つ音が響いた。オガルゥはファリナに頬を打たれたらしく、そのまま床に転げ落ちた。


「ファリナ、一体何を!」


「ライキ! これも魔女の手段です! 言葉で相手を惑わし破滅に導く……古典的な手法なのです!」


 辛そうに身体を起こし、オガルゥはワナワナと震えるファリナを見上げた。


「それは私に言っているの? それとも――自分にかしら?」


 オガルゥの一言で感情が抑制出来なくなったらしいファリナは、近くに置いてあった花瓶を持ち上げ、オガルゥの頭を目掛けて投げ付けようとした、その瞬間――途端に力が抜けたように膝から崩れ落ち、果たして彼女は昏睡した。


「心配しないで……魔術で眠っているだけ。それより、お願いがあるの。ボク、どうか叶えてくれるかしら。その後になら……ファリナの望み通り、


 困ったように笑うオガルゥは、自分に目掛けて花瓶を投げようとしたファリナの頭を、労るように撫でながら呟いた。


「……ファリナ、それで良いでしょう?」

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