引き寄せる森

 翌日の出発は実に早いものだった。朝日を全身に浴びていたライキの肩に手を置いたのは、何事も無かったかのように振る舞うファリナだった。


「さぁ、行きましょうか」


 目が赤く腫れている事から、あの後も泣き続けていたのだろう――ライキは目を擦りながら思った。


 朝食代わりのダルを齧りながら、二人は遠くに見える森林を目指した。恐らくは一筋の陽光すら差さない程に木々が生い茂っている事だろう――ライキはふらつく足を叱咤して歩いた。


 昨晩の事は無かった事に――二人の間でそうした不文律が存在するようだった。その方が旅も続けやすいし無闇に悩む必要も無いはずだ、ライキはこの流れを歓迎し、一方でやり切れなく思っていた。


 俺は後ろの魔女に何かを感じているのかもしれない……いや、それは決して無いしあってはならない……と強く自らに言い聞かせ、固いダルを飲み込んだ。


「やはり匂いが強くなっています、次の魔女は――端的に言えば恐ろしく『強力』です。五人の中で一番聡明で、それでいて魔術が得意だった。恐らくは一番の難敵でしょう……」


 ファリナはライキの後ろを歩きながら、森林に潜むという魔女について語った。


「何かを創造する事に長けていたオガルゥは、私達の使う魔術やサフォニアの政治基盤を構築した魔女です。魔女はそれぞれが得意とする魔術の系統が違いますが、彼女は一通りの魔術を扱えました。勿論、森林の周囲を囲むように結界も張っているでしょうし……接近する事すらが難しいかもしれません」


 歯噛みするような表情のファリナだった。


「果たして俺に勝てるでしょうか……」


 魔女狩りを必ずや完遂してみせる――常に魔女狩りに対して強気であった彼に、初めて怯えが見られた瞬間であった。


「大丈夫、必ず勝機はあります。貴方なら必ず……」


 心強い後押しであったが、昨夜の一件により歯車が噛み合わない彼にとっては強過ぎる強壮剤だった。


 俺はそんなに凄い男ではないのに……。


 胸に去来した弱気さに、彼自身が驚き――そして軟弱な思考を持った事を嘆いた。


 本当に俺はどうしてしまったのだろうか? 己の心に巣食う懊悩を晴らす者は、何処にもいないとライキは投げやりに悟った。


 しばらく歩き続けた二人は、小さな人力車の逓所を見付けた。徹夜のまま魔女と事を構えるのを恐れたライキは、ファリナに提案して人力車を使う事とした。


「本当は荷物しか運ばないんだが……まぁ、暇だから運んでやるよ」


 大きな欠伸をしてから、逓所で居眠りをしていた男は出発の準備を始めた。


「ありがとうございます、それで行き先なんですが……」


「あぁ、そうだったな。何処に行くんだ?」


 ライキ達は荷台に乗り込んだ。汚れが目立つ以外は乗り心地も悪くなさそうであった。


「あそこに見える森まで、お願いします」


 ライキの言葉を聞いた瞬間、男は動き出そうとした足を止めた。


「……何だってあそこに」


 訝しむように男はライキを見た。


「何か問題でも……?」


 ファリナは小首を傾げたが、男は呆れたようにため息を吐いた。


「間違っていたらごめんよ、悪く思うな。……あんたら、しに行く訳じゃないよな」


 ライキとファリナは身を乗り出した。


「自殺? まさかそんな事はしませんよ」


 反論するライキに男は「ならいいんだ」と無愛想に返し、ようやく車を引っ張り始めた。男の足取りは体格や風体に似合わず、重く鬱々としているようだった。




「俺達の地元じゃ、あの森は『永夢えいむの森』って呼んでいるんだ。普通の奴は近付かない、普通の奴はな」


 ガタガタと揺れる荷台からファリナが言った。


「永夢の森? あそこは確かユーニス森林といったはずじゃ……」


「詳しいなお嬢さん、昔はそう言ったらしい。でも今じゃそんな名前で呼ぶ奴はいないんだよ、訳を知りたいか?」


 はい、とファリナは続きを待った。男は少し経ってから答えた。


「死にたい奴が行くんだよ。要するに自殺志願者だ、この世に望みも何も持てない奴は森に行って……」


「自殺するのですか?」


 いいや、とライキの言葉を否定し、男は人力車の速度を緩めた。


「殺してもらうんだ、に」


 すぐにライキは隣を見た。そこには目を見開くファリナの姿があった。信じられない、とでも言いたげな表情である。


「魔女が自殺を助けている……?」


「そうさ、あくまで噂だけどな。聞いた話によると、ある町で事業に失敗した奴が森に向かったらしい、そいつに金を貸していた奴が森まで追っかけて行くと……そいつの姿は何処にも無い、代わりに大量の墓石らしきものが森の中にあったんだとさ」


 男は続けた。


「あの森は陰気な奴を引き寄せるらしくてな、そこで待っている魔女が死にたくとも死ねない奴を安らかに殺してくれるってんだから、各地から死にたがりの奴が来るんだとよ」


 創造を得意とする魔女、オガルゥ。


 その彼女が今は自殺幇助を行っているという。時の流れは魔女すらも変えてしまうのか……と、ライキは時間という無慈悲な流れを感じた。


「俺も魔女伝説は信じているけどよ、そんな恐ろしい魔女は聞いた事が無い。……でも、時々思うんだよな」


「何を思うのですか?」


 急き立てるようなファリナの問い掛けに、男は何かを諦めるような声色で答えた。


「中にはどうしたって死ぬしか救いが無い奴もいる、そいつらの死に場所を用意しているだけじゃなく、苦痛も無く殺してくれるんだ。その行いが正しいかどうかはともかく、そいつらにとってはまさしく『救済』だよな……ってさ」


 死こそが救済。


 ライキにとって初めての思想であった。


 どうしようもない程の絶望の歯牙に掛けられた時、復讐を誓うか逃走を図るかは各人次第である。


 ライキはたまたま前者として生まれたが、勿論後者として生まれた者も少なくない。ならばその者達にとって、オガルゥは悩める「子供達」の首を絞めてやる、新しい形の「母親」であったのだ。


「何となくだけどよ、俺はその魔女が怖くても、決して悪い奴だとは思えないんだ。どちらかと言えば、もっとこう……滅茶苦茶に『優しい』んじゃないかなって」


 太陽が頂点から地平線に向けて沈み始めた頃、ライキとファリナは森の入り口に立っていた。


「どうもありがとうございました、どうか私達の事はご心配無く……」


 頭を下げたファリナに倣い、ライキも男に一礼した。


「見た限りあんたらは大丈夫そうだな、死ぬなんてとんでもないって感じがするよ」


「死ぬなよ」豪快に笑った男は人力車を反転させ、逓所へと戻って行った。彼は結果として、今までに何人もの自殺志願者をこの森まで送り届けたのだろう――ライキは隆々とした男の背中を見つめながら、背負う必要の無かった責任に潰される事の無いよう祈った。


「匂いがかなり強い、強いけど……」


 ファリナは鼻を動かしつつも、何処か困惑したような顔をしている。


「何かあったんですか?」


 首肯する彼女の表情は、頭上の空と違って曇ったものだった。


「オガルゥの……衰弱を感じます、それに結界が一切見当たらない……」


「衰弱……?」


 風に吹かれて波打つように、木々が音を立てて葉を擦らせた。

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