未遂
酒に酔い、歌いながら通りを歩く男達の姿が無くなる頃、ライキは虫に食われた木の壁を見つめていた。すぐ近くでは寝息も立てず、ひたすらに沈黙して横になるファリナがいた。
何故雑貨屋でファリナが怒気を露わにして、レガルディアに向かって行ったのだろうか――。
「この質問は禁句だった」というレガルディアの言葉が、彼の心に引っ掛かり続けている。忘れようとしてもその言葉はしぶとく残り続け、今ではライキの懊悩の種となっていた。
俺の記憶が間違いなければ、彼女は「母」という単語が登場したのを切っ掛けに感情を高ぶらせた……。だとすればファリナにとって耳障りな言葉は――。
「……ライキ」
彼を呼ぶ声がした。か細く、怯えたような声調である。
「何かありましたか? 眠れないとか」
彼女はかぶりを振った。
「オガリスですか? 少しやりましょうか」
再度かぶりを振るファリナ。
「では一体――」
ライキは息を呑んだ。おもむろにファリナは起き上がり、上着――原装――を脱いで丁寧に畳んで再び横になったのだ。初めて見るファリナの軽装は、目を離したくとも離せない異様な吸着力が感じられた。
人外の時間を生きた魔女が持つ、熟成された恐るべき魔性。
軽装となった事により彼女から強く香る何か。
すぐにライキはそれを「生肌」の匂いと同定したが――トラデオはおろかマピンでも嗅いだ経験は無かった。
異性と同衾した事が、彼には一度も無かった。
その為に眼前で起きている光景が何を意味しているのか、この後に男は「どのような事をするのか」が想定出来ずに、ただその場に立ち尽くすのみであった。
「……な、何をしているのですか」
魔女は答えない。しかしジッと彼を見つめるその両眼からは、愛情と怨嗟を掻き混ぜた果てに完成する、「未知なる感情」の存在をヒシヒシと彼は感じた。
目の前の魔女は一体何を求めているのだ? 俺はどのように動くのが正解なんだ? 誰か教えてくれ、頼む、俺には何も分からないんだ!
薄闇で彼女が寝返りを打った。服の下から覗く背中は吸い込まれるように美しく、穢れは全く感じられない。作り込まれた陶製の像の如く、彼女は膨大な時を生きる美術品であった。
ライキは寝床に歩み寄った。
床が軋む音に反応したか、ファリナの肩が微かに揺れた。
彼は何も分からない、如何にして服を剥ぎ、如何にして玉の肌を弄び愉しめば良いか――彼は一つの心得すら無い。
今の彼を突き動かすのは、生物の奥底に潜む「本能」だけである。
果たして彼はファリナの傍に立った。
努めて冷静に振る舞ってはいるものの、抑え難い衝動、困惑、情動が渦を巻いて彼の胸に居座る為に、呼吸が荒くなるのを彼は止められない。対するファリナも同じようだった。
胸を裂いて飛び出しそうな程に高鳴る心臓、叫び出したくなる本能、暴力的な官能の匂いに混乱する嗅覚……。
伸びた彼の手に触れた細い肩が、ビクリと震えた。
滑らかな曲線の丘陵の手触りといったら!
ライキは目眩を覚えて――図らずとも魔女の上にのし掛かってしまった。
「……っ」
息を吸い込む音がすぐ下から聞こえる。ファリナのものだった。更に香る蠱惑の匂いがライキの理性を削り取っていく。
最早調心を行う事など、微塵も彼は考えない。強固な理性の堤防が、情動という濁流によって破堤され掛けている。ライキは震える肩を掴み、ファリナを仰向けにした。柔らかな髪が揺れて、彼の逞しく育った腕を撫でた。
小指がやっと入りそうなぐらいに開いた唇を、ライキは齧り付くように接吻をしようとして――果たして彼は動けなくなった。
宝石に似た輝きの目に、大粒の涙が蓄えられていた。
涙の由来をライキは知らない。
しかし月光に煌めく温かな水滴は、それ以上の行為を拒絶するに他ならなかった。暴発し掛けたライキの情欲を急速に冷やしていき、最終的には霧散させてしまった。
罪悪感が突然に噴き出してくるのを覚えたライキは、そっと彼女から離れ、先程と同じように傍に立つ。ファリナは涙に気付いて必死に拭っているが、当然にライキは再び彼女の上に戻る事は無かった。
「……すいませんでした」
ライキは頭を垂れて部屋を出た。外は虫の声で溢れており、一層に辺りの静寂さを強調しているようだった。
彼女がどうして同衾を誘ったのか――未だ平静を取り戻せぬ胸を押さえながら、ライキは一人考えた。
やがてそれはレガルディアへの怒りによる「当て付け」に似たものであろうと結論した時、部屋の中から啜り泣くような声が聞こえた。
その夜、ライキは部屋に戻らず、アトネを照らす月を一睡もせずに眺めていた。
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