待ち侘びた女
初めて耳にする女性の声をライキが聞いた時、辺りの家々は突如吹き荒んだ突風に当てられ、ミシミシと音を立てて現状の異常さを物語っていた。
辺りを見渡しながら「誰が喋ったんだ!」「私も聞いたわ!」と驚く村人達の反応から、ライキは謎の女性の声を聞いたのは幻聴ではないと確信した。
「ライキ、今の声聞いたか!」
ワリールは岩のような手でライキの肩を揺すった。しかしながら少年の視線は一件の家の屋根を向いている。
少年は屋根の上に腰掛ける、一人の女性らしき姿を認めた。
今の声はあの女が発したに違いないと思った。
女は月を背に座っている為に、輪郭が月明かりでぼやけてしまい子細までの確認が出来ない、ライキはゆっくりと女の方へ歩いて行った。
「……そこにいるのは誰だ?」
以前に森で出会った動物が発した唸り声に似せ、ライキは出来るだけ女を威嚇するように話し掛けたが、女は怖がるどころかクスクスと笑い出した。
「坊やが思った通りの存在、と答えれば分かるでしょう」
謎の声と同じ声質だった。
聞く者の耳を撫でるが如く甘い声、そしてサッと首を刈ってしまうような底知れぬ迫力を持ち合わせている声。少年が生まれて初めて聞く「音」であった。
「――お前。人間じゃないな」
村人達は突飛な言葉を発したライキに眉をひそめた。それから一人の助平な男が、屋根の上の女に向かって「降りておいでよ」と促すと、女は「そうね」と嬉しそうに返した。
腰を上げ、女が家から飛び降りようとした時、強烈な胸のざわつきに脅されるようにライキは「来るな!」と怒鳴った。
しかし女は聞く耳など持たないと言わんばかりに、フワリと軽々しく飛び降りた。
ドサリ、と重々しい音が横から聞こえる。
続いて村の女が「どうしたの」と叫んだ。
ライキは助平な男の胸に手を当てた、手から伝わるはずの微振動が全く感じられない。一年を通して逞しく育った全身に、ジンワリと冷や汗が滲んだ。
「あぁ……本当に久しぶりだわ、胸が高鳴るわね……」
艶のある声でそう言いながら、女はライキ達の方へ歩き出した。村人達は堰を切ったように、その場から逃げ出した――。
石に躓き転ぶ者、それを見捨てて走り去る者、懸命に何かに祈りを捧げる者、口汚く女を罵る者……。反応は様々であったが、しかしながら一つだけ、皆が共通している事があった。
村人達は「ありのままに」行動していたのだ。
目の前に迫る理由無き死に、彼らは恐怖のあまり屈服したのである。
言ってしまえば個々人が持つ「本能」が露呈したに過ぎないが、それでもライキの思考を殴り付けるには充分であった。
一八歳を過ぎたライキは、今日この日に「人」という動物の生態を思い知った。
「助けて、助けて――」
耳を貫くような甲高い声が途中で止んだ為、周囲の者は「また一人死んだ」という事実にまた怯える、そして更に己の本能をさらけ出し、生存を目指して駆けた。
ライキの眼前に、最早「村」という人間的なコミュニティは存在しなかった。
「逃げちゃダメ、寂しいもの。私ったらここに運命を感じたのよ……何かに誘われるような、甘い運命……」
女は人恋しそうな声で村人達を呼んでいたが、ライキはすぐに明確な殺意が隠されている事を悟った。理由は分からなかった。
「ライキ、こっちだ、こっちに逃げるぞ!」
次々と倒れていく村人を見つめていたライキの腕を、ワリールは力任せに引っ張って走り出した。
何度も転びそうになりながら、ライキはようやく体勢を整えて併走した。二人は暗い森の中を駆けていた、暗夜の森は危険だとジリが言っていたのをライキは思い出す。
「……あいつ、何なんだよ……どうして……急に……何者なんだよ……」
草を掻き分ける音や二人の荒くなる息遣いで聞き取りにくかったが、ライキは「分からない」と答えた。今は何を聞かれても分からない事ばかりだった。
遙か後方で男の吼えるような声が響いた瞬間、二人は足を止めた。
急な停止に対応する為に、握られた近くの枝が大きく撓った。
「今の声」
ライキの問い掛けに苛立つように、ワリールは枝を思い切りに折った。
「アテルニスだ――とにかく行こう」
果たして男達は再び駆け出した。段々と水辺の匂いが感じられる頃、少年は隣から鼻を啜る音がしたのに気付き、それを無視した。
「さあ――ここからどうする?」
昼間にファリナと出会った湖畔に到着したライキは、彼女と言葉を交わした倒木の近くを見やる、そこはひどく懐かしいような気がした。現状とその時がひどく乖離しているからだろうと少年は結論した。
「それなんだが……あそこに行くのはどうだ?」
ワリールは鼻の辺りを乱暴に腕で擦り、他の場所と比べてより鬱蒼とした森を指した。トラデオの者は皆がそこを恐れて近付かず、そしてファリナが入って行った「垣根の森」だった。
「でもあそこは入っちゃいけないんだろう? もっと危ないかもしれないよ」
実のところ、危険性はほぼ無い事を少年は分かっていた。ジリの遺した家帳、またその森を宿にしている本人から禁足地の真意を知っていたからだ。
「今はそれどころじゃない、禁足地の理由はきっと旅の魔女に関係していると俺は思う、だったら逃げ込んでも許してくれるさ」
さすが村随一の魔女伝説信仰者だ、とライキは感心した。聞き知った伝説の内容と自身の推察により得た予想なのだろう、後で昼間に起きた出来事、知った事実を教えてあげようと少年は決めた。
「行くぞライキ、今は生き延びる事だけを考えて走るんだ」
日が差している時に歩く際は、何も足下を注意する必要が無いが、月光のみを頼りに湖畔を行くのは非常に体力を要した。日に何度も足を運んでいるライキですら、時折転石や丈の長い草に足を取られそうになった。
「歩きにくくて仕方ない、いつもこんなところを歩いているのか」
ワリールは倒木を跨ぎながら言った。目がギラリと輝いた気がした。
「うん、でも昼間と違って……どうも勝手が分からないんだ」
「……とにかく、先に行くぞ」
フゥフゥと息を吐くワリールの横顔に、言い様の無い「獰猛性」が垣間見えたようだった。
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