可哀想な子

「い……た、い」


 悲痛な声を上げるザラドは、まだ反撃に移る余裕は無かったらしい。ライキは一気に畳み掛けるべく、ファリナの手を後ろから掴んでから――唯一の攻撃的な魔術の手順を踏んだのである。


 ごく短い詠唱は心中で構わない、ライキは把握していた。しかしながら――全身を打つような恐怖感、そして高揚感が詠唱の秘匿化を許さなかった。


「刀になれ、ファリナ!」


 ライキの声に呼応するように、再びファリナは魔女から姿を変え、魔女を狩る為の刀剣へと変身した。


 止め処なく流れる血、涙を混ぜた体液を垂らし続けるザラドを、無慈悲に袈裟斬りにすべくライキは刀を振り上げる。刃紋は炎と木漏れ日を反射し、宝玉の如く美しく輝いた。


 刀が宙を走る、軌跡はザラドの右肩から始まり――左の脇腹を通った少し先で止まった。


 肉を裂き、骨を断つ感触。聞き慣れない肉体を斬る音、生臭い血の香り、口を半端に開いて驚嘆するような相貌。眼前より迫る「生々しい程の命」の燦然とした煌めきが、大海の渦となってライキを飲み込んでいった。


 それから――彼は刀身から滴り落ちる血も拭わず、黙してザラドを見つめている。


 似付かわしくない騒動が終焉を迎えた為に、種々の小鳥はさえずりを再開した。深い山林にそれは木霊し、そのままネイラ山の自然度が高い事を示唆していた。中でもチッチッと区切るように鳴く鳥は四方から響いている。名前をチリチリ鳥といい、トラデオ村ではその個体数の多さから繁栄の象徴として好まれていた。


 チリチリ鳥が遠くの木でさえずり、近くの木でさえずり、ライキの頭上でさえずった。かつて彼の同郷の者が好んだ鳴き声が、今は生臭い行為を咎める糾弾に聞こえた。


「……坊……や……」


 血色の良かった唇を真っ青に染めたザラドは、彼の身体を這うように実にゆったりとした速度で見上げた。


 ライキの目に映った彼女の姿は、まるで虫が寒波に負けて動けなくなっているような哀れさに塗れ――悲しげなものであった。


「ねぇ……私……死ぬ……?」


 黙してライキは血濡れの刀に「魔女になれ」と念じると、果たして柔らかな輝きを発しながらファリナが顕在した。彼女は額を押さえ――頭突きによって怪我をしたらしい――ぼろ切れのように横たわるザラドの傍に膝を突くと、最早震えすらしなくなったザラドの手を取った。


「……坊やに……騙され……子供に……私、私……」


 騙し討ちによって死を迎えようとしている魔女は、なおも「母と子」という関係にこだわりを見せた。




 母である魔女が、子である人間の手によって殺される。




 この結末は、どうしても納得のいかないものなのだ。子が母に刃向かうなど、殺意を向けるなど、あってはならぬ禁忌の行為だ――ザラドの暗い目はそう語っているようだった。


 鳥が鳴く、大小問わず声色を問わず、あらゆる鳥が呆気なく散ろうとする葬送曲を歌っていた。


「ザラド。五人の魔女の時代は終わったのです……貴女の役目は、ここで終わったんです」


 深く、しかしながら小さなため息を吐いたザラドは目を閉じ、遙か遠くの音楽隊のように消え入りそうな声量で言った。


「……あぁ……ファリナ……そう、そういう事だったのね……坊…………や……」




 可哀想な子……。




 そう呟き、魔女ザラドの目は黒く濁った。


 ファリナがザラドの開いたままの瞼を閉じてやると、またしても祈るような動作を見せた。やがてザラドの亡骸は砂のように崩れ落ち、吹いた一陣の風によってネイラ山全体に広がっていった。


 いとも容易く、魔女ザラドは――もしくは人間の母――絶命した。寿命ではなく、魔力切れでもない。かつての同胞が子である人間に手を貸し、そして人間に殺されたのだった。


 魔女である自分が負けるとは思っていなかったから、子である人間が裏切るとは思わなかったから……。


 ザラドの運命を決定付けた理由を「驕り」と片付けられる程に、ライキは単純な思考を持ち合わせてはいなかった。故に彼は今、葛藤していた。


 覚悟を決めたはずの魔女狩りが、サフォニアを救う事が――こんなにも血に濡れてやるせないものだとは!


「ライキ。救国とはまさに打倒の連続……私は長く生きてきたからよく分かります。この国も、それ以外の国でも当たり前の事。国を脅かす敵は説得など通じるはずも無い、何故なら国を敵に回す事など並大抵の思考ではないから。そしてその巨悪を破る時は……必ず血が流れるのです。ライキ、まだ幼いライキ……貴方を濡らす血霧が降りるのは数える程、かつての救国者に比べれば――」


 ゆっくりと立ち上がるファリナは、微動だにしないライキの手を取った。


「――いえ、だから辛いのかもしれません。波濤のような非日常に慣れる事も出来ず……」


 彼女の言葉が不思議と耳に入らず、その手前で踵を返すような感覚を彼は覚えた。


 ファリナの言葉は俺に対してのものか、それとも別の誰かの為か?


 氷のように身体が冷えたかと思えば、すぐに熱波に当てられるが如き火照りに戸惑うライキの手を、ファリナは小鳥を摩るように撫でた。


「ライキ、貴方はいつでも魔女狩りを止める事も出来る。全ては心のままに……貴方は選択の資格がある。勿論、このまま闘う事も……」


 ライキはファリナの顔を見やる。木漏れ日の当たるその相貌は、掴みどころの無い、深海のような不思議な落ち着きを保っていた。


 一人目の魔女を殺した。彼の思考を満たすのはそれだけだった。

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