アトネへの疾走
ライキが九歳の頃、ジリは彼にある昔話を聞かせた。ひどく不条理でおかしなものだった。
小さな村に住んでいた農夫は、村を訪れた旅の美女と恋に落ちた。美女は呪いと言っても良い程に美しい相貌を持っている為に、幾多の男を知らぬ内に魅了していった。
農夫と美女は小さな畑を耕して暮らしていたが、ある日の晩に村は山賊によって壊滅させられた。山賊の頭はかつて美女に恋した男の一人であり、農夫に嫉妬して村を襲ったのだった。
農夫と美女は命からがらに逃げ延びたものの、燃え上がる村を遠くから見つめて呆然としていた。美女は言った。「私を恨んでおりますか」、農夫は答えた「全く恨んではいない」と。やがて二人は別の町に移り住んだものの、美女の美麗さが諍いを引き起こし、各地を争いの渦に巻き込んでいった。
二人は「災厄の夫婦」と恐れられ、住処を人のいない山中に求めざるを得なくなった……という顛末である。
「さてライキよ、幼いライキよ。お前はこの男をどう思う?」
ライキは困惑した。恋をした事が無いライキにとって、農夫と美女の話を理解するには到底経験も知識も足りなかったのだ。ウンウンと唸る少年を見て、ジリはひどく嬉しそうに嗄れた声で笑った。
「僕は男の人、悪くないと思うよ」
考え抜いた結果の答えだった。ジリは「そうかそうか」と頷き、小首を傾げるライキの額を小突いた。
「ライキよ、いつかはお前も恋をするだろうて。それが正道かどうか、人道に背くか否かは知るところでは無い。しかしライキよ……どうしようも無い程の愛を見付けてしまったのなら……最早惑いは不純物、思うがままに行け。後悔など、歳を取ってからタップリとするが良いのさ……ヒェッヒェッ」
ライキはジリの笑い声が不愉快だったが、しかし彼の言葉はあながち間違いではないのだろうと、青い幼心に思ったのだった。
永夢の森から抜け出た三人を待っていたのは、ライキとファリナを森に連れて来た人力車の男だった。彼はひどく狼狽した様子で、「早く乗れ!」と急かした。
「また会ったな! だが挨拶は後だ、そこのお嬢さんも一緒に乗れ! なるべく遠くまで逃げるぞ!」
理由を聞く暇も無く、三人は男に半ば無理矢理に荷台へと乗せられた。男はすぐに走り出し、ドンドンと山の方へと向かって行く。
「一体どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも無い、町の近くに見慣れない旗を持った奴らを見付けた! だからこうしてあんたらを迎えに来たんだ、絶対生きていると確証を持っていたからな!」
ライキの胸がざわつき始める。その町とは――俺とファリナが逗留したアトネではなかろうか。陽気に酔っ払った男達の、宿屋の主人の――そしてレガルディアとその祖母の顔が不意に思い出された。
「ライキ……もしかしてアトネの町が……」
ファリナが悲壮に満ちた顔で言った。
「よく知っているな、そうだよそのアトネだ! 不幸な事に国軍の駐屯地から離れている、もう今は……」
クソッ、と吐き捨てながらも男は更に山へ走る。彼の背中は大量の汗で滲んでいた。
「助けなくちゃならない――すいません、俺はここで降ります!」
ヒラリと荷台から降りたライキに続き、ファリナとアレアも軽やかに飛び降りたが、男は急停止をしてから「馬鹿野郎! 死んじまったら何も無いぞ!」と怒鳴った。
何と優しい人間なんだ――ライキは素早く頭を下げた。
「おい! 頼むから一緒に来いよ! もう死神の真似事は沢山だ! 乗ってくれ、山に行けばまだ時間は稼げるんだ、頼む、頼むよ!」
太い筋肉に包まれた男はしかし、顔を幼子のようにしかめた。駄々を捏ねるような表情は、ライキの心を細い針で刺すようだった。アレアは男の方へ走って行くと、彼の手を取って目を閉じた。
「……な、何だ、何だよあんたは。手が光るなんて……!」
「これで……三度陽が沈むまで、貴方は息を切らせず走る事が出来る。逃げて、どうか遠くまで……生き延びて」
果たして三人は走り出した。体力には自信があったライキだが、段々と息が続かないようになっていくのを悔しがった。アレアの魔術を利用する事も提案したが、アレア曰く「保有する魔力が多過ぎて干渉が出来ない」体質であった。そして魔女であるファリナも同じく――。
「……ライキ、この調子だと町が……!」
泣きそうな声でファリナが絶え絶えに言った。最早ライキに振り返って言葉を返す余裕は無く、未だ遠くの蜃気楼のように映るアトネの町影が恨めしくすら思えた。到底間に合わない――ライキは歯噛みした瞬間、後ろから吼えるような怒声が聞こえた。
「遅い遅い! そんなんじゃ夜になっちまうぞ! 乗れったら乗れ!」
声の主は別れたはずの男だった。全力で駆けて来たはずの彼だったが、一つも呼吸を乱していなかった。アレアの魔術の効用が実に素晴らしい事を証明していた。
「貴方は……! どうして逃げないの、危ないよ!」
アレアは男を怒り付けたが、彼はヒョイとアレアを抱くと荷台に乗せた。
「うるせぇ! 俺は恩を仇で返す男なんだ、理屈は分かんねぇがとにかくこいつはすげぇ力よ、貰ったもんは好き勝手に使わせてもらうぞ! なぁに、走るのは慣れている、それに疲れないと来たもんだ。あっという間にアトネへ連れて行ってやる、後は知らんぞ!」
男は笑った。彼こそが勇者であるとライキは感じた。
無骨でありながらもその実、陽光のように温かな心の持ち主は再び三人を乗せた荷台を、獣のような力でグングンと引っ張って行く。アレアは男の背を見つめ、沈痛な面持ちで呟いた。
「……だから私は人間を死なせたくない。あのような人がまだまだいるんだから……」
しばらくすると、町の方から悲鳴が聞こえて来た――。
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