Invasion

アレア

 ライキは永夢の森の中、獣すら通らない魔女の道を乱れた息で駆けている。


 目が覚めたら自殺を図ると思うわ――。


 オガルゥの言葉が耳から離れないライキは、乱暴に掻き毟られるが如く、妙な胸騒ぎを覚えていた。彼女が死んだ事によって魔術が解けてしまい、ファリナの眠りが急に醒めてしまうとしたら――それだけは回避しなくてはならない。オガルゥと交わした約束を履行するべく、ライキはなおも走った。足に絡まる草を踏み付け、何度も体勢を崩し掛けても速度を緩める事もなく――。


 果たしてオガルゥの家が見えてきた。しかしながら彼は驚嘆を隠せない顔でそれを見つめる。


 古びた木製の扉が、大きく開け放たれていたからだ。


「……ファリナ」


 口を突いて出たのは、自らの運命と故郷を狂わせた――本来ならば――呪うべき魔女の名前だった。しかしその言葉には一欠片の恨みも混じっていなかった、純粋に彼女の安否を案じていたのだ。


 ガシャン、と何かが割れる音が家の中から響いてくる。いよいよ心を乱したライキはファリナの名を呼びながら、開け放たれた玄関を駆け抜けた。


 そこに立っていたのは、しな垂れるようにして椅子にもたれ掛かるファリナ、そして見知らぬ少女だった。


「だ、誰ですか――」


 少女は驚いたように目を見開き、肩で息をするライキを見つめた。両眼は燃えるような赤に染められており、ライキは一目で少女を「人外」なる者だと断定した。

「……っ」


 ファリナは何も答えない。むしろ――喋りたくないとの意思表示なのか、ライキから顔を背けて身体を震わせている。人外の少女はライキの全身を見回してから「貴方が」と囁くような声で言った。


「ライキさん――なの」


「……はい、貴女はもしかして……」


 オガルゥから聞いていた、サフォニアの建国に携わった五人の魔女の一人、そして最後の標的――遠い記憶を探るようにして、ライキはゆっくりと口を開いた。

「魔女……アレアですか」


 彼女は一瞬だけライキから目を逸らし、何かを戸惑うような表情で頷いた。


「……うん」


 アレアはファリナを一瞥し、ライキに嘆願するように頭を下げた。


「ライキさん、ファリナから全てを聞いたよ。お願い……今は私を殺さないで? どうしても……どうしても護らなくてはならないものがあるの、お願いします……」


 ファリナの啜り泣く声が家に響いた。聞いている者の胸を締め付けるような、か弱く絶望に満ちた暗色の感情が滲んでいるようだった。


「護りたいもの……?」


 アレアの炎色の瞳が燃え上がるように輝く。彼女の目は涙に潤んでいたのだった。


「この国に暮らす――全ての人間。この国は……に包囲されているんだよ」


 ルーゴ国。数日前に聞いた名前だった。確か宿屋の女が言っていた気が――。


「進軍はすぐに始まる……、以前から人間達は噂をしていたらしいけど……事実だという事はまだ知らない。王族は何処からか情報を手に入れて、軍隊を向かわせているらしいけど……この国の軍事力じゃ駄目だったみたい。王族は逃げちゃったらしいけど、このままじゃ……。でも私だけじゃ到底倒し切れない、だからオガルゥの力を借りようと思って森に来たんだ……」


「じゃあこのまま放っておくと……サフォニア中が――」


 アレアは焦りを隠せない声色で言った。


「戦火に包まれる、皆が何も分からない内に……何もかもが奪われる」


 それなのに、とアレアはファリナの肩を掴み、沈黙する彼女を思い切りに揺さぶった。


「貴女は……一人で死のうとして! ライキさんを欺いて……自分だけ楽に終わろうとするなんて……さっきの話が本当なら、ファリナらしくないよそんなの! 対抗出来るのは私達だけなんだよ! 逃げるなんてズルい!」


「もうどうしようも無いのよ!」


 ファリナが口を開いた。アレアに食い付くような勢いで怒鳴った彼女の目には、煌めく涙が浮かんでいる。


「私は貴女の期待するような……優しい魔女なんかじゃない。人間を利用して魔女を殺す、そして自分の思い通りにならないと逃げ出すような、最低の女でしかないのよ!」


 しゃくり上げるような泣き声は、ライキの心中を大いに掻き乱した。真の仇敵であるはずの魔女が己に与える、この不可思議な感情は一体何なのか? 彼はひどく困惑した。


「馬鹿よ、私は本当に大馬鹿よ! どうせ、どうせ私なんか……」


 ファリナは叫んだ。彼女の慟哭は森の木々に留まる鳥達を飛び立たせ――立ち尽くすライキを強制的に突き動かした。


「誰も必要としていないんだ!」


 彼女の言葉は、死を宣告された者の悲鳴のようだった。毒霧に似た嘆きが彼女の心を包んでいったその時、その侵略を認めない男がいた。


「えっ……どう、して」


 この世界に生まれ落ちてから、魔女ファリナは他人の温もりを感じずに生きて来た。怨嗟の雨に打たれ、諦観の雪に降られ、憤怒の雷に驚かされ、孤独な風に吹かれるだけだった。


 魔女は温もりを否定しつつも、心奥深くでそれに触れる事を願っていた。足りないものばかりに埋められた心を照らす、一条の光を欲していた――。


 華奢でしなやかな肢体を、力強く抱き締める「欺かれた男」がいたのだ。


「俺は貴女を赦す事が出来ない。村人と魔女を……願いの為に無下にした貴女を赦す事が出来ない。でも……それでも……このまま死のうと言うのなら、護れたはずの人間すらも護らないのなら……俺の心まで殺そうと言うのなら! この場で俺は貴女を殺す!」


 初めに、彼の心には怒りがあった。次に戸惑いが被せられ、葛藤が現れた。混ぜられたそれらを包むのは、初めて女性に抱いた「愛情」だった。


 旅を続ける内に、彼は眠る魔女の顔を見つめて思った。「この人と夫婦になるとしたら、どのような未来を歩むのだろうか」……最初は小さな萌芽だった。その都度彼は調心を行い、操る炎でそれを燃やした。しかし萌芽は次々と起こり――やがて彼は諦めたのであった。




 俺は、この魔女に恋をしているのかもしれない……。




 彼はオガルゥからファリナの計画を聞かされ、抱いた想いは「幻影」に過ぎなかったと一度は己に言い聞かせた。しかし。果たしてそれは失敗に終わり、彼は種々の矛盾の末に幻影が「現実」であると気付いたのだった。


「嘘、嘘ですそんなのは! 洗いざらいお話しましょうか、私はトラデオを揺り籠にしたんです。そして貴方が生まれた……それからザラドを――偶然とは言え――誘い込んで村を襲わせて、貴方を復讐鬼へと変えた! 全ては私が望んだ事、破滅を望んだのはこの私です! ライキ、それでも私を必要だと言えるのですか!」


「ファリナ! 何て酷い事を――」


 言えます、とライキは冷静な声で、アレアの言葉に重ねて答える。二人の魔女はジッと彼を見つめていた。


「俺は俺の判断でここまで来た。自分の意思で今まで旅をして来たんです。貴女の事を恨んでいる、しかし――何故か、惹かれているのもまた事実です。これだけは譲れない、絶対に欺けない想いです! いつか貴女はこう言った、『自分を武器にしてくれ』と。だから貴女は俺の武器だ、所有物なんだ、大切な女性なんだ! 誰からも必要とされない? そんな言葉は――俺が死んでから言ってください!」


 ライキは立ち上がると、ファリナの震える手を取った。


「闘いましょう、ルーゴの軍隊と。全てを終わらせた後、それでも死にたいと願うんだったら、その時に俺が殺してあげます。ファリナ、貴女の命は――俺が引き受ける」


 灰色の原装に――ポタリと、温かい水滴が落ちた。


「ファリナ……立ってよ。もう貴女は、貴女だけのものじゃないんだよ」


 震えるファリナの肩に、ソッと手を置いたアレアは――目を俄に輝かせた。

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