残り……

 ファリナはある音に気付いた。ただの風音にしか聞こえぬ音が、しかし猛烈な程の憎悪と決意に満ちた何者かの声に聞こえたのだった。しばらく考え、やがてある結論に導かれた。


「アレア、


 ゆっくりとライキの顔が上がった。彼の安心しきったような表情が、今の彼女にとってどんなものよりも尊く、愛しく映った。


「……ライキ、私は思い付いたんです。全てを護る、私にしか出来ない事を」




 周りに大量のルーゴ兵の死体が転がる頃、魔獣はその場でドサリと倒れた。


 禍々しい身体は黒い蒸気のような煙に包まれ、果たしてアレアの姿を再び形作る。すぐにレイト達が駆け寄った。彼らを阻む敵は、もう一人もいなかった。


「お母さん、お母さん……」


 子供達が血に塗れたアレアを揺すると、閉じられた目が微かに開いた。


「院長! 今、手当を……」


「…………大丈夫」


 アレアはもう如何なる手段を用いても助からない事を、既に理解していたのだった。


「……皆、顔を見せて」


 ラウードはすぐにアレアの身体を起こしてやると、子供達の方に顔を向けさせた。


「ねぇ……お母さん、死んじゃうの」


 シクシクと泣き出す子供達をなだめるように、アレアは右手を伸ばしたが――先の戦闘で腕は断たれていた。


「死なないよ……ちょっと……疲れたから休むだけ……」


 アレアの顔にパタパタと水滴が落ちた。ラウードは声を出さずに泣いていた。子供達にあくまで心配を掛けまいとする「魔女」に、この上無き尊敬の念を抱いているらしかった。


「……さぁ、ラウードと一緒に……洞穴までお帰り?」


「やだ、やだ! お母さんも一緒に帰ろう、皆も待っているんだよ!」


「まだ行けないの……私は大丈夫、本当だよ…………ほら――」


 ラウードは目を見開き、それから顔を伏せて泣き続けた。アレアはぼろ切れのように傷付いた身体を――恐るべき気力によって立ち上がらせた。一定の間隔で落ちる血液を気にもせず、アレアは「母」として彼らを見送ろうとしたのだ。


「お母さん、大丈夫? 本当に大丈夫なの?」


「見て……お母さん、ちゃんと立っているでしょう。後から行くから……ラウード」


 肩を震わせ、ラウードは院長補佐としての「最後の」仕事を完遂するべく、顔を拭って起立した。


「はい、院長」


「…………この子達を、洞穴まで」


 ラウードは無言で子供達を引き連れ、二度とアレアの方を振り返らずに洞穴まで向かって行った。子供達は途中、何度もアレアの方を向いて「後でね」と手を振った。アレアは微笑みを浮かべながら、子供達に手を振り返したのである。


 ラウード達の姿が見えなくなった頃、アレアは昼寝でもするように、ゆっくりとその場で横たわった。


 彼女は目を閉じると、子供達に約束した人形作りが、まだ途中であった事を思い出した。


 忘れぬよう、忘れぬよう……と、工程を朧気な頭で思い浮かべたが――魔女アレアは、そのまま目を開ける事が無かった。




 愛する者の胸に顔を埋めて目を閉じる。


 誰もが一度は経験したであろう行為を、ライキはこの日初めて体感した。服を介在する体温の伝わり方、自身からは嗅ぐ事の出来ない匂い、背に置かれた蔓のように絡む腕……全てが新鮮だった。


 出来るならいつまでも――とライキは何処までも静かな快楽に沈んで行きたかったが、自らに、そしてファリナに課せられた使命を忘れる程に愚かな男ではなかった。身体を起こし、ファリナの手を取って立ち上がらせる。彼女は足取りが覚束ないようだった。


「……ありがとう、ファリナ。これで何も悔いは無い、さぁ、他の人達を助けに行かないと」


 しかしファリナは動かず――むしろ動く事が出来ないらしかった。ライキに悟られず発生させた結界は、規模は小さくとも「必ずこの人を護らなくてはならない」という心理的な負荷が生じた為に、果たしてファリナの魔力の消費量は決して少なくなかったのだ。


「ふ、ファリナ! 目の隈が、また濃くなって――」


「ううん、いいんですよ……遅かれ早かれ、こうなる事は予想していましたから」


 耳を塞ぎたくなる程に街角で溢れていた市民達の悲鳴は、いつしかピタリと静まっていた。代わりにルーゴの兵士達が鳴らす甲冑の音が多くなり、ライキは目を尖らせて辺りを警戒した。


「……とにかく、この辺りは敵が多い。隠れる場所を変えなくては……」


 歩き出そうとしたライキの腕をファリナはそっと掴んだ。振り返ると彼女は微笑みながらかぶりを振っている。


「何故です! このままだと危険だ、まだアレアさんも闘っているでしょうし――」


「今は……」


 一瞬、ファリナは口を結び掛けた。


「魔女は、です」


 ファリナの声が二度、三度と木霊するようだった。グラネラでルーゴ兵と闘っているのは、最早俺とファリナだけなのか――。


「……それでも、やるしかないでしょう。たとえ貴女が刀になれずとも、やってやります」


 疲れの見える大きな双眼が、サッとライキから視線を外した。


 その実、ライキは内心「希望は無い」と覚悟を決めてもいた。


 見るからに衰弱の激しいファリナと、彼女の力が無ければただの村男に過ぎない自分だけで、経験も訓練の量も遙かに遠く及ばないルーゴの兵士達を如何に打倒するというのか?


 この瞬間、ライキの精神を辛うじて支えているのは、既に狂気の域まで純度を高めてしまった「使命感」だけだった。


「落ちている敵の剣を拾えば、それも立派な武器になる。無ければ煉瓦を、それも無ければ両手両足があります。斬られれば虫のように跳ねて、相手の顔に噛み付くだけです」


「……どうして、そこまでして闘うのですか……生きたくはないのですか」


 あそこを捜せ、こっちは見たか――兵士達が互いに声を掛け合っていた。次々と話し声、甲冑の音が増えていく。先程よりも兵士の数が倍増したようだった。


「闘える者が、その身を盾にして護りたい者を護る。本能のようなものです……そりゃあ、生きていたいですけど」


 長い沈黙が訪れた。それからファリナは何かを思い出したかのように、ライキの目を見つめて言った。


「願い事……」


「え?」


 途端にライキは眼前の光景が一気に様変わりし、初めてファリナと出会った、トラデオ村のあの湖畔になった錯覚に陥った。


 あの日から全ては変わっていった。絶望を知り、怒りを知り、痛みを知り、裏切りを知り、愛を知った。湖畔での出会いが、人生の分岐点であったのだ。


「以前に話した事です。願い事、今なら一つだけ叶えられます……ライキ、貴方はもう、死を恐れなくて良い」


 彼女が一体何を言わんとしているのか、どのような意図で「願い事」の件を持ち出したのかを図りかねていたライキだったが、フラフラと歩き出した彼女の背を見た瞬間、「止めろ」と思わず声を上げて抱き留め――結果、敵に見付かったのだった。


「いたぞ! 早く広場に連れ出せ!」


 すぐに二人は殺到する敵兵によって降伏させされ、広場の中心に移動するよう命じられた。

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