畔にて

 ライキが魔女伝説の続きを知ってから一七日が経ち、ジリは自宅で眠るように生涯を終えた。


 心の奥底で苦手としていたジリは、しかし両親を早くに亡くしたライキにとって肉親のような存在だった。自身の一七歳の目明け日から一七日後に目を閉じたジリの遺体を見つめている内に、ライキは何らかの不思議な因果が働いているのではと考えずにはいられなかった。


「また一人、語り部がいなくなったのか……」


 日々の山仕事によって逞しく野性的な身体を獲得したワリールの背中が、ライキはこの日少女のようにひ弱なものに思えた。彼は誰よりも連夜のジリの語りを楽しみにしていたのをライキは知っていたが、それでもワリールのそんな姿を見たくないと嫌悪すらした。


「仕方ないよ、爺さんはもう充分に長生きしたんだ。それよりも次の語り手を決めなくちゃならんだろうて……」


 同じく肩を落としていた初老の男アテルニスが(彼も山仕事に従事していた)、ワリールの背中を二度、子供をあやすように叩いた。力無く頷いたワリールだったが、「今はそれどころじゃない」と彼の背中が語っているようだった。


「慣例でいくと村で一番年老いた者だが……モラネ婆さんはもう魔力に酔っているしな。若者に語り継ぐ事など到底無理だろうさ」


 アテルニスはため息を吐きながら、遠くに見えるモラネの家を見やった。


 この村では理性を失ったり狂気じみた言動をとる者の事を「魔力に酔う」と表現し、村八分にするまではいかなくとも深い関係を築く事を皆が嫌がった。ライキもそれに倣い、老婆との関係を解消した。幼い頃によく遊んでくれた優しいモラネの事を思い出すのが、何よりの苦痛だったからだ。


「とにかく語り手を見付けないとな……旅の魔女に申し訳が立たない」


 万年雪を頂に被るアグネイラ山を見つめ、しばらくしてからアテルニスは「しまった」と口を手で塞いだ。ライキは目が泳いでいるアテルニスに「大丈夫」と声を掛けた。


「ジリ爺さんに全部聞いたよ、村の意味も、旅の魔女の事も」


 少年の言葉に幾分か落ち着きを取り戻したアテルニスは、「そういえばこの前に目明け日だったな」と笑った。


「ライキも魔女伝説の真意を知ったからには他人事じゃないんだ、これからはしっかりと村の未来を担ってもらわなきゃな」


 岩のようなアテルニスの手が、か細いライキの肩にズンとのし掛かる。どうして山の男達は動作がいちいち乱暴なのだと少年は眉をひそめた。


「……語り手、しばらくは俺が務めちゃ駄目かな」


 先程から押し黙っていたワリールが口を開く。アテルニスは「うーん」と唸り声を上げ、丸太のような腕を組んで目を閉じた。


「俺としちゃ、熱心に爺さんの話を聞いていたお前が語り手になるのは問題無いと思うんだ。でも現実問題、そうは上手くいかねぇのさ。『慣例を護れ』とか『人生経験が無い』とか言って、自分では動かない年寄り共もいるのをお前も知っているだろう」


「やっぱりなぁ、駄目だよなぁ」


 大きな男が二人、ガックリと肩を落とした。彼らのやり切れなさを、ライキは痛い程理解していた。


 トラデオ村に暮らす人々は一生の殆どを狭い村で暮らす為、どうしても慣習や伝統を重視する保守的な思考になりがちだった。目新しさや革新に接点が無い村民――特に老人――は、良い意味でも悪い意味でも変化を嫌ったのだ。


「しかし、あんまりにも……こう、何というか、動きや進歩が無ければトラデオの未来は暗い気がするんだよ」


 ワリールは不安げな表情でアテルニス、そしてライキの顔を見た。解決策の見えない悩みを打ち明けてくれたワリールによって、ライキは本当の意味で村民になったのだと実感した。その感覚が妙に嬉しく思えた。


「気持ちは分かる、俺もそんな事を考えに考えて、体重が減った頃もあったよ」


 白い歯を見せて微笑むアテルニスの顔は、悩む若人を導こうとする指導者のようだった。漠然とした安心感を覚える顔付きを、ライキは村の外で一度も見た事が無かった。


 学校の教師は何処か自信に欠けた表情をしていたし、子供達もそのような大人達から手に入れた知識を、まるで元から知っていたかのようにひけらかしていたからだ。


 思考を、が村の外では溢れている。


 一七年という歳月を経て、ライキはその事実に気付いた。




 ライキが村の大人達と遜色無い程に仕事をこなせるようになったのは、目明け日から丁度一年が経った頃であった。


 トラデオの村では目明け日を過ぎた者に仕事を与え、大人の仲間入りをさせるのが慣習だった。ライキの役目は近くの湖畔から一日何往復もして水を汲んでくるという、過酷で単純なものだ。この仕事を嫌う者は少なくなく、ライキも時々、桶を何処かに打ち捨ててやりたい気分になった。


「ご苦労さん、いつものようにそこの大桶に入れといておくれ」


 村で唯一の牧場を営んでいるレーネが大桶を指差し、汗塗れのライキに冷やしたハリド茶を手渡した(トラデオ村で採れる薬草を煎じたものだった)。


「あんたは偉いね、人が嫌がる仕事を黙々とこなして……旦那と大違いさ」


 乾いた喉をハリド茶で潤すライキを、嬉しそうに見つめるレーネの手はあかぎれが生じ、日々の家事に追われている事を示唆している。


「家畜の世話ですらろくに出来ないのに……町にばかり出向いてさ、酔っ払って帰って来た時にはぶん殴ってやりたくなるよ」


 レーネは拳を宙で振り回した。ライキはその粗暴な振る舞いに思わず笑い、つられてレーネも笑った。


 以前にライキは彼女の旦那が足繁く町に通う理由が、酒を飲むだけでない事をワリールから聞かされた。町の畜産組合に取り入り、どうにか高く家畜を買い取ってくれないかと粘り強く交渉をしたり、安く飼料を手に入れようと奮闘しているらしかった。


 外に出る者にはそれなりの、家を護る者にはやはりそれなりの苦労があるという事を、ライキはこの夫婦から学んだ。


「たまには、旦那さんにも優しくしてあげてくださいね。色々大変なんですよ、きっと」


「……ま、ライキに言われちゃ仕方ないね。今日ぐらいは大目に見てやるさ」


 気恥ずかしそうに頬を掻くレーネの笑顔は、化粧こそしていないものの働く女性の気高さ、美しさを体現しているようだった。土に塗れ、あかぎれを起こす手を労りもせず、ひたすらに働く女性。レーネのような女性達は、トラデオ村の自慢だった。


「そうだ、あかぎれに効く薬草を持ってきてあげますよ。湖畔によく生えているんです」


 否応なしに湖畔に通う内に、ライキは現地の植生や環境について詳しくなった。いつの間にか身に付いた知識が、彼の小さな自慢だった。


「気を遣う事なんて無いよ、どうせ塗ってもひどくなるんだ。放って置けばいいのさ」


「大丈夫です、ほんのついでですから。じゃあまた後で」


 これ以上滞在してもレーネを説得する事は不可能だと踏んだライキは、呼び止める彼女の声を無視して湖畔へ向かった。しばらくして、後ろから「気を付けなよ」という言葉が聞こえ、ライキは嬉しくなった。


 湖に到着すると、彼は桶を放って薬草を探し始めた。いつもなら特に水が清浄と思われる場所で水を掬うが、水汲みよりも今はレーネの為に薬草を探してやる方が得策だと思えた。


 あの薬草は泥が多いところによく生えているはずだ。ライキは書物からではなく、実体験から得た生の知識を掘り起こして薬草を探した。手に纏わり付く丈の大きい植物の感触がこそばゆく、青臭い植物の匂いが彼を包んだ。


 朽ちた倒木を引き起こし、懸命に薬草探しを行うライキはふと背後に何かの気配を感じた。


 振り返ると一人の少女がライキを虚ろな目で見つめている。


「何かを探しているのですか」


 少女の声を聞いた瞬間、ライキは心を撫でられるような奇妙な感覚に襲われた。一目で「トラデオの人間じゃない」と察した少年は、警戒するように後ずさりをした。

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