Affection
「お母さん」
都市グラネラ。サフォニアの西方に位置する国家の中枢であった。王族の屋敷は勿論、大規模な市場や教育機関、司法院や図書館などの種々の公的施設が軒を連ねていた。しかしながら市民達はある噂に首を傾げ、また漠然とした不安に懊悩していた。
最近、王族がグラネラを脱出したらしい。
サフォニアを代表する王族が都市を離れるといった前例は今までに無く、またそれを否定する看板も何処となく嘘臭いものだった。
生涯の殆どを都市から離れずに生活するグラネラ市民は(生活の全てが都市内で完結する為、わざわざ郊外まで出掛けていく者はいなかった)、最初は「王様は物見遊山にでも出掛けたのだろう」と楽観視していたが、月に一度の国王会見が無くなり、意見集約日(一週間に一度、聴取官という者が市民からの要望を聞き取り、有益なものを国王へ提出する日)が延期された頃には、市民達は「何かがおかしい」と気付き始めたのである。
グラネラの外れ、自然度が中心街よりも大幅に高い場所にアレアの経営する孤児院はあった。近年、この大都市が抱える問題の一つに「捨て子」がある。市民には漏れなく「市民税」が課されている為に、望まぬ子供を授かった夫婦が花畑や井戸の傍に捨てて行くといった事件が多発した。
花畑や井戸はかつて魔女が造り出したものであり、その傍に置く事で子供は無事に育つ事が可能である――根も葉も無い噂を鵜呑みにした心無い夫婦は、この噂を一種の「免罪符」として信仰し、襲い来る罪悪感から身を護っていた。
増え続ける孤児を国営の孤児院では到底まかなえぬ、ならば――とアレアは身分を隠して自ら子供達の受け皿となったのである。
「ここは……学校ですか?」
太陽が沈み切った頃。未だ動きを見せないルーゴ軍の侵攻を恐れつつも、ライキとアレア――そして刀から姿を変えたファリナは、白い建物の前に立っていた。
「ううん、孤児院」とアレアは扉を叩いた。
「ただいま」
しばらくすると扉の向こうからパタパタと足音が幾つも聞こえ、「遅い!」と不満げな声と同時に扉が開いた。大勢の子供達が堰を切ったように玄関から飛び出ると、すぐにアレアを取り囲んで「お帰りなさい!」と飛び跳ねた。
「ねぇねぇ、今日は何処に行っていたの? 僕、気になってお勉強出来なかった!」
「お前はいつもだろ! ねぇ、アレアお母さん! お土産、お土産無いの!」
アレアは子供達を一人ずつ抱き締め、「元気にしていた?」と言葉を掛けた。その光景は闘争に埋もれた生活を送っていたライキすらも微笑ませたが――ファリナは何処か寂しげな表情を浮かべていた。
「お帰りなさい、院長」
奥から白髪の老婆が現れ、アレアに頭を下げてからライキ、ファリナにも一礼した。ふくよかな身体はそのまま彼女の優しさを体現しているようだった。
「ただいま帰りました、ラウード」
「アレアお母さん、あの人達はだーれ?」
「すごーい! あのお姉さんとっても綺麗だよ!」
何人かの子供がファリナを取り囲み、口々に「お人形さんみたい」と彼女の容姿を褒めそやした。ファリナは俯きつつも、満更では無さそうである。ライキは思わず微笑んだ。
「ライキさんとファリナさん、私のお友達だよ。仲良くしてね」
夜にも関わらず溌剌とした子供達にたじろいだライキとファリナだったが、彼らのあどけない質問に答える内に二人の表情は実に柔和なものへと変化していった。その様子を見ていたアレアだったが、すぐにラウードが真剣な面持ちで彼女に耳打ちをする。
「院長、やはり噂は――」
アレアは頷き、「後でお話します」と返してからラウードにライキ達の飲み物を用意させた。
数時間後、全ての子供達が眠りに就いた後――普段なら全ての部屋の照明が落とされるはずであったが、唯一談話室だけが今もなお煌々と明かりが灯っている。
足の短い卓を挟んでライキとファリナが、そしてアレアとラウードが並んで座っている。
「無知な老婆にお聞かせくださいませ――この都市は、この国は一体どうなってしまうのでしょうか……」
ラウードは嘆くような目で三人を見やる。口を開いたのは子供達の目を輝かせる程に美しい髪を持つ魔女、ファリナであった。
「サフォニアは……いずれルーゴの兵によって滅ぼされるでしょう」
老婆ラウードは目を見開き、大きな身体を震わせた……。
何て事! ラウードは顔に手を当ててシクシクと泣き出した。
指の間から流れ落ちる年老いた涙はしかし、決して風化する事の無い子供達への「慈愛」に溢れているのをライキは悟った。
「ラウード……希望を捨てては駄目。ここに頼もしい助っ人が来てくれたのですから」
大人びた口調でラウードを勇気付けるアレアを、ファリナは黙して見つめている。何か思う事があるのだろうか、ファリナはそれから目を伏せて卓上の紅茶を啜った。
「そ、それで……オガルゥさん、という方はどちらに」
ファリナは顔を上げて目を丸くするラウードに何かを言い掛け――そして歯噛みするような表情で再び俯いた。
「オガルゥはいませんでした。何処か遠いところへ行ったらしく、置き手紙だけが残されていて……」
アレアはラウードに「嘘」を吐いたのである。確かに遠いところへは行ったが……ライキは余計な事を口走らないよう、ただ黙って頷いて見せた。
最初は落胆を隠せない様子のラウードだったが、次第に興味はファリナとライキに向かって行く。
「ではこのお二人は……? 院長は助っ人と呼ばれていましたが……」
居住まいを正し、ライキは「改めまして」と目礼をする。
「私はライキ、と申します。トラデオ村という場所から参りました」
ラウードはトラデオという名前に首を傾げつつも(これが普通の反応だ、とライキは懐かしさを覚えた)、「お力添えをどうか」と深々と返礼をした。続いてラウードはファリナの方を見やる。
「ええっと――」
明らかにファリナは困惑していた。どう答えて良いものか、何処まで話を信じてくれるのだろうか……? そしてライキは「あぁ」とラウードの注意を引いた。
代わりに何か都合の良い嘘を吐くしかない、ライキは頭を回転させてそれらしい言葉を検索したが、果たして適切なでっち上げを思い付く事が出来ず――それは在り来たりで「独りよがり」な嘘だった。
「私の妻です、二人で旅をしているものでして」
アレアはキョトンとした表情でライキを見つめ――一方のファリナは顔を炎の如く赤色に染めて「そ、そうです」と頷いた。
「そうでしたか……若さとは素晴らしいものですね、困難すらも愛によって乗り越えようとするその熱量……老いぼれには眩しくて羨ましいものです」
ラウードは微笑みながら立ち上がり、戸棚から茶菓子を取り出してライキとファリナの前に置いた。
「お食べになってくださいまし、それはグラネラに伝わる幸運を授けるお菓子ですから……。せめて二人のこれからを、私にも祈らせてください」
ライキは促されるままに菓子を食べながら、ある事を思った。
本当に夫婦となれたなら、どのような結末が待っているのだろうか――?
誰かを愛するとはまさに呪いの如く、状況を俯瞰する視界を奪ってしまう危険なものである……ライキはこう結論した。
同胞の魔女を誘い込んで村人を間接的に殺し、そして自分を魔女狩りの道具へと仕立て上げた稀代の悪女ファリナ。しかしながら羅刹なる魔女を愛してしまった事を、ライキは特段後悔をしていなかった。魔女でありながら、誰よりも人間臭く涙に暮れた一人の女性に、彼はただ惹かれただけに過ぎない。
その気持ちは善悪の立ち入る領域ではなく――純粋な「想い」のみが居住を赦されている。
「今日は二人共、ここに泊まっていくといいよ。もう夜も遅いし、明日からまた対策を考えなくちゃ」
あぁ、いけないとラウードは談話室を飛び出して行く。寝室の準備をするのだろう――ライキは老婆を働かせる事を申し訳なく思いつつも、久方ぶりの持てなしについ顔を綻ばせた。
「……アレア、本当に私がここにいても良いのですか」
悲痛な声でファリナは問うたが、アレアは「どうして」と小首を傾げる。
「いくら魔女ではあっても……貴女のように魔術が上手に使える訳でも無いし……」
そう呟く彼女の表情は暗く、見ているライキの心すらも暗雲で包んでしまうようだった。
「別に良いじゃない。だって、ファリナは協力してくれるんでしょう、それで充分だよ」
ファリナは菓子を見つめて「でも……」と俯いた。何か言葉を掛けようかとライキが身を乗り出した瞬間、扉が開いて「寝室の準備が整いました」というラウードの声が響いた。
「ゆっくり休んでね」
アレアはヒラヒラと手を振って微笑んでいた。
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