母性

 ニールマンゼの攻撃は至って単純だった。魔術も使わず、何かの罠も用いず、ただライキを目掛けて刃物を振り回した。滅茶苦茶な軌道の斬撃を躱しつつも、何故か反撃に転じる事が出来ないライキは自分に苛立ちを覚えた。


 簡単のはず、ほら、今だ、腕を落としてやればいい――そうだ、これもだ。簡単、簡単なんだ、こんな相手は……。


「返せ、ハルタを返せ、返せ!」


 魔力も足りず、身体能力も及ばないはずのニールマンゼを突き動かす超常的な力の正体を、やがてライキは「これしかない」と同定した。




 母性。ひたすらに子供を護ろうとする、人間の、生物の――




「お母さん、お母さん、お母さん!」


 泣き喚く娘の声が更にニールマンゼの母性という炎に油を注ぎ、次第に彼女の攻撃は激しさを増していく。


 このまま殺されるのが正解なのか?


 混乱したライキの思考が「選択的敗北」へと彼を導こうとした瞬間、罪無き命を砂へと変えられた、トラデオの記憶が鮮烈に蘇った。


 違う、俺は闘わなくてはならない。少数の死で多数を救う、その為には思考を小から大に、小から大に――大に!


 刃と刃がぶつかり合う。鉄の土壌から咲いた火花は、寸刻を置かず宙へと散った。


「うぅ……ぐっ!」


 村を滅ぼされた男と、家族を殺されそうになっている母の膂力と膂力が鍔迫り合う。興奮した獣のような息遣いのニールマンゼの顔は、最早涙と鼻水によってふやけているようだった。


「こっちだって……お前らには恨みがあるんだ、お前らが生きていれば、またトラデオのように人が死ぬんだ!」


「……知らない、そんな事知らないわ! 私だって、私だって死ぬ訳にはいかないのよ! あの人が遺してくれた子供達を……ユリィとハルタを……なのに、なのに貴方達は! !」


 ニールマンゼの振り絞るような反論が、返ってライキの逆鱗に触れた。彼の心に立っている篝火は、遂には火山の如く轟々と燃え上がり――そして彼の理性を燃やし尽くした。


「お前らが……お前らがその言葉を使うなぁ!」


 ニールマンゼの攻撃を跳ね返し、ライキは彼女の身体を袈裟斬りにした。力みによって狙いが甘くなってしまった事により、魔女に深手を与える事は出来なかったものの、細い肢体から噴き出した鮮血は床にボタボタと垂れ落ちる。


「あぁあああ……っ」


 消え入るような声を上げ、胸を押さえるニールマンゼはしかし、未だライキに対して敵愾心を燃やしているようだった。


「いやぁー! お母さん、お母さん! 死なないで、死んじゃ嫌だぁ!」


 耳を劈く程の音声で叫ぶ娘を心配させないようにか、ニールマンゼは青ざめた顔で微笑んだ。


「……大丈夫、大丈夫よユリィ。お母さんは……負けないわ、心配しないで?」


 ニールマンゼは落ちた刃物を拾い上げ、先程と同じように構えて言った。


「……どうせ、ファリナから聞いているのでしょう? そうよ、私は魔女。収穫の夜を待つしか生きる手立ては無い。でも……あの人と結ばれてこの子達が生まれてからは……人を襲わないように、原装を着て凌いだのよ……でもね、やがては耐え切れなくなる、魔力に縛られた私は生きる為に……生きる為に……私は…………!」


 庭に建てられた謎の石碑。それに込められた意味が、光を浴びてライキの眼前に全貌を現したようだった。


「『君が人を襲わなくて済むように』……あの人は言ったわ。そして弱い私は……愛する人を殺した! この命に代えたの! だから絶対に死ねない、この身体は私であり、あの人であり、子供達を護る盾なのよ! 聞こえているかしら……ファリナ! そうよね、! でも安心して、貴女はきっと後悔するわ、断言する!」


 村中に響き渡る程の声でニールマンゼは叫んだ。私の方が上に立っている――勝ち誇ったような顔付きだった。




「貴女は――我欲に殺される!」




 床を踏み締める音に続き、ニールマンゼはライキに一撃を加えんと走り出した。咄嗟に反応して迎撃を試みるライキもまた、鮮やかな赤を載せた刀を振りかぶる。


「あっ……」


 運の無い魔女であった。ニールマンゼは転がっていた瓶の一つに足を取られて躓き、数瞬だけ隙を見せた。そして――ライキはそれを見逃すはずも無く、刀を彼女に滑らせた。


「お母さん――」


 ユリィが急いて走って来るのをライキは認めた。


 刀から伝わる感触は二つあった。斬り付けたのは確かにニールマンゼであったはずだが――。


「ユリィ、ユリィ!」


 絶命してもおかしくない程の深手を負っているはずニールマンゼが、なおも娘の身体を抱いて涙を流していた。母を庇おうと身を挺した娘に対する、人外の慈愛がそうさせるのだろう、ライキは呆然としながらも思った。


「あああぁあああ……ユリィ、どうして……どうして……」


 先刻まで溢れていたライキの戦意は、最早微塵も無かった。途方に暮れるニールマンゼも同じらしく、迫る敵よりも目の前で斃れる子供達の方へ意識が向いていた。


「ごめんね、ごめんね……」


 ニールマンゼはユリィを抱いて足を引きずり、ハルタの近くまで歩いて行った。流れ続ける血は燃えるような夕日に似ていた。


「ほら、行こうね、お外に行こうね……」


 ライキは驚嘆した。血塗れのニールマンゼが子供二人を抱いて、更には歩いて外に出ようとしていたからだった。身体の何処にも無いはずの体力は、一体何処から湧いて出て来るのか?


 それからライキは家の周りに張られた結界の事を思い出し、ニールマンゼよりも早く勝手口に向かい――目に見えぬ結界を斬り付けた。焼けた鉄に水を落としたような音が響き、果たして結界は破られたようだった。




 結界を放って置けば、親子は完全に息絶えるだろう。彼女達の殺害が目的なのに、何故俺は結界を破ったのだろうか……。




「……どなたか存じませんが――」


 ニールマンゼはライキを判別する事すら出来ない様子だった。彼を見る目は、手助けをしてくれた心優しい青年に向けるそれと同じだった。


「ありがとうございます」


 彼女は重たい足を引きずり、懸命に子供達を落とさぬよう、遅くも確実に庭へと向かって行った。やがて彼女は石碑の前に立ち止まると、子供達を丁寧に傍に寝かせた。ライキは何も言わず、彼女の「最期」を見届けた。


「貴方……ごめんね。ユリィとハルタを……護れなかった。ごめんなさい、弱い私でごめんなさい……」


 ニールマンゼは子供達に覆い被さるように横たわると、大きなため息を吐いてから微笑んだ。


「ユリィ……ハルタ……貴方……」


 か細い声は石碑に染み渡るようだった。いつの間にか雨は止んでいた。微かな風が吹いて、目を閉じた魔女の髪を撫でて行った。


 愛しているわ――。




「あら、あんた達また来たのかい、もしかして年を取らない女のところへ行ったの?」


 ライキとファリナはマピーナの宿屋に戻り、今日も宿泊させて欲しい旨を伝えてから鍵を受け取った。二人は事務的な会話以外は一度も口を開く事が無く、果たして各々の部屋に入るまで雑談の一つも交わさなかった。


 寝床に横たわるライキ。鞄の中から食べ物を取り出そうとして――止めた。今は水すらも喉を通らないだろう、彼は一人思った。


 窓の外は薄暮の町が広がっている。子供達が騒ぎながら自宅へと帰って行く声が、橙色に輝く建物に反響していた。彼らは料理を作りながら家で待つ、母の元へと帰って行くのだ。遅い、何処で何をやっているんだと怒られながら、今日何を学び、誰と遊んだかを楽しげに語るのだ。


 普遍の幼き権利を、彼らは余す事無く行使する。勿論、ユリィとハルタも……。


 天井の木目がライキを睨んだ。その目はニールマンゼに似て鋭く、哀しかった。隣の小さな木目は泣いていた。涙を蓄え、「どうして殺しに来た」とライキを責めていた。


 ライキは枕を掴むと、思い切りに天井へ投げ付けた。埃が宙に舞い、彼の頭へ肩へと着地した。それから枕を顔に押し付け、うつ伏せになって――彼は目を閉じた。


『どうしようも無い時は、ただ眠るだけだ』数年前に読んだ小説の一文であった。ライキは当時納得もしなければ否定もしなかったが、今の彼にとってこの一文は唯一の道標となった。


 なるほど、確かに眠るしか無いな……。


 外の音が段々と遠くなる。意識は明瞭なものから濃く粘りのある状態へと移り変わり、そしてライキの意識は遙か遠方へと飛び立って行った――。




 深夜。泥のように眠るライキの上に、そっと薄い毛布を掛ける者がいた。


 その者はしばらく、微かに上下する彼の胸を見つめ、自らに言い聞かせるように一言呟いた。


 その言葉は困惑、そして悲哀に満ちていた。


「間違っていないわ、私――」

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