第8話 ラッキーだったということだ

 途中ですれ違った経理部の同僚の男性からジャージを借りた。社内でランニングが流行っていて、彼も仕事の後定期的にビジネス街を一周する習慣があり、ロッカーに常時ランニングウェアを保管しているのだ。


 アレックスは経理部で一番背が高い。春の健康診断では百八十九センチだった。だから何ということもなかったが、今となっては、パガタの平均身長が高いからだ、と思う。アレックスの場合は学生時代にスポーツをやっていた結果今でも結構筋肉質で、周りの人の中ではずば抜けて体格がいいように見える、かもしれない。


 このジャージは本来の持ち主が穿くと足首まで覆う丈だが、アレックスが穿くと足首が裾から完全に出ていた。窮屈だ。


 会議室はブラインドが下ろされていて暗かった。しかしブラインドの隙間からは激しい西日が差している。上げたらきっと眩しいだろう。


 アシュリーが灯りをつけた。部屋の中が明るくなった。


 彼女は率先して端にある席に座った。そして自分の斜め前を指して「そこに座ってちょうだい」と言った。アレックスは指示されたとおり彼女から見て直角に当たる席についた。


 しばらくの間、二人とも無言だった。


 アレックスがぼんやりしているのはさほど珍しいことではないが、アシュリーまで言葉選びに悩むそぶりを見せるのは珍しい。


 ややして、彼女が口を開いた。


「気にしないでと言っても難しいでしょうけれど、そのうちすっきりする機会を設けられると思うわ。この件については私が責任をもってうちの部長や総務部長に報告するから、きっとのちのち彼らがあなたの話を聞きに来ると思う。その時存分ぶちまけてちょうだい。最終的には、彼女は我が社の軍法会議にかけられるはずよ」


 アレックスは首を横に振って「構いません」と答えた。


「事を荒立てたくありません。忘れたいです。俺も疲れますし、彼女のキャリアに傷がつくのは可哀想だ。なかったことにしたいです」

「そういうわけにはいかないわ。私も聞いたし、実は近くにいた数人の同僚も気がついていたのよ。何より録音がある」

「ですが俺はこれで俺の名誉が傷ついたとは思いません。彼女は疲れていたんでしょう、今だけですよ」

「庇う必要はないわ」


 彼女はそこで「それではまるでDV被害者よ」と言った。最近別の場所で同じ単語を聞いた気がするがどこでだっただろう。記憶障害になったのかと思うほど突然ここ数日の記憶が曖昧になった。実はそれくらい傷ついて動揺しているのかもしれない。


 うつむいて、机の上に置かれた自分の手を見た。浅黒い肌をしている。

 目線を少し先にやったところで、アシュリーが自分の両手の指を組み合わせていた。白い手に、丁寧に整えられたピンク色の爪がついている。


「仮にあなたがよかったとしても、この状況を知ったみんな、誰より私が不快な思いをしたのよ。あなた個人が許しても、社会が許さない発言だわ。ハラスメントとはそういうものなの」

「俺のせいでみんなが不快な思いをしたんでしょうか」

「投げやりにならないで、アレックス。あなたは被害者」


 被害者になるのもつらいことなのだ、と知った。自分の受けた傷と向き合うのは疲れる行為だ。世の犯罪を告発した人々はなんと強いのだろうと思う。アレックスにはとてもではないができそうになかった。


「明日は休暇を取りましょう。一日ゆっくり休んで。明後日出社する頃には事態が動いているわ」


 あのアシュリーが言うのだから必ずそうなるだろう。しかしアレックスは明後日出社しづらくなる気がした。


「いえ、必要ありません。あまり繊細な人間だと思われるのも癪ですから」

「では自宅で今日の発表のお疲れ様パーティを開くというのはどう? 明日は私からのご褒美休暇よ。だいたい次の月次決算まで急ぎの仕事はないじゃない、今こそ有給休暇を消化すべきだわ」


 それはハッピーな解釈だ。アレックスは苦笑して、「そこまで言うなら休みます」と答えた。


 また、沈黙が漂った。壁に掛けられている時計は最新式の電波時計で秒針の音も鳴らない。防音ガラスは厚く、外ではこの国の大動脈である片道三車線の道路を無数の自動車が行き交っているはずなのに、静かだった。無音だ。


「――こういう経験があまりなくて」


 アレックスは溜息をついた。


「俺は本当にラッキーな男でした。身内からこういう裏切りにあったことは過去に一度もないんです。幼稚園や小学校の頃メジャーの同級生に怖がられて悲しい思いをしたことはありましたが、友達も出自にかかわらずたくさんいて、うち何人かは今もクリスマスには会ってパーティをしますよ」

「そう。いい少年時代を過ごしたのね」

「だから今時人種差別なんて存在しないと思っていました。二十一世紀ですよ? 子供のいじめの範疇だと思っていて、大人になったらすっかりなくなるものだとばかり」


 自嘲的に「まったくおめでたい考えでした」と笑った。


「まあ、俺がラッキーだったということですね。今でもこうして嫌な思いをしている同胞がたくさんいるということなんでしょうね」


 あえて同胞という言葉を使った。

 正直なところ、アレックスにはパガタへの帰属意識はなかった。街のパガタはパガタであってパガタではない。精霊信仰もしていないし、狩りの仕方も知らない。クリスチャンで給与労働者だ。

 しかしメジャーであるレベッカやアシュリーとパガタである自分との間には明確な溝があることを思い知った。


「こういう時どういう反応をしたらいいのか見当もつきません」


 アシュリーが「休養が必要ね」と言った。


「一種の自己防衛本能よ。少し休んだらいろんなものが噴き出すわ」

「そうでしょうか」

「あなたの記念すべき良い日が台無しになったこと、とても残念に思うわ。せっかくCFOからお褒めの言葉をいただいたのにね。上司として私も責任を感じる」


 そこで彼女は自分の腕時計を見た。


「もう時間ね。幸か不幸か今日はあなたも定時退社ができそうだわ」


 壁時計を見上げた。午後五時十五分だ。


 アレックスは率先して立ち上がった。万が一彼女がアレックスを慮って愚痴を聞く時間を持とうとしたら厄介だと考えたからだ。


「帰ります」

「そうしてちょうだい」


 アシュリーも立ち上がった。


 彼女が会議室の電灯のスイッチに手を伸ばした時、アレックスはひとつ質問を投げかけた。


「レベッカが、この会社はパガタを優先して採用する、と言っていました」


 彼女が振り向く。


「俺もひいきしていただいて入社したんでしょうか」


 少し間が開いた。彼女は即答しなかったのだ。それが何よりも雄弁に真実を語っているように思われた。


「あくまでレベルが同じだったら、の話よ。条件がまったく同じだと思われた場合にのみ、優先的にパガタを採用する、ということにはなっているわ。うちの会社だけではなくて、国の施策よ」


 誰かはアレックスのために落とされたのだろうか。


「パガタは恨まれますね」

「その分苦労して成人するパガタが多いんだからトントンよ」


 アシュリーの白い指が、灯りを消した。すぐそこの廊下が眩しいほど明るかった。




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