第7話 全部あんたのおかげよ
気がついたら、正午だった。
上半身を起こし、枕元に放り出していたスマートフォンで時間を確認し、驚愕した。
朝ナヴァを送り出し、入れ違うようにやって来たスーザンに家事を丸投げして、ナヴァが寝ていたベッドに潜り込んだ。それで目が覚めたらこの時間だ。昨夜二十三時に眠りにつき、朝七時から八時までの一時間弱ナヴァの相手をした後ふたたび寝たので、合計十二時間、約半日寝たことになる。今日を休む日に設定して本当によかった。
寝室を出ると、スーザンがキッチンで作業をしていた。鍋をおたまで掻き混ぜている。コーンポタージュのいい匂いがする。
「あら、おはよう。満足した?」
「おはよう……」
「ちょうどよかったわ、もうすぐお昼ご飯にしようと思ってたところなの。起こすのは可哀想でどうしようか悩んでたのよね」
小皿に取り、軽く味見をしてから、言う。
「あんまり仕事がきついようだったら辞めて帰ってきていいのよ。無理はよくない。田舎でのんびりするのも悪くないとお母さんは思う」
苦笑しながら、ダイニングテーブルの椅子に座った。
無理なのだろうか。自分ではそんな感覚はなかったが、傍から見たらそう感じるのだろうか。
無茶なことはさせられそうになっている。
しかしやってみたいと思う自分がいる。
「ねえ、母さん」
「何さ」
「俺に田舎に帰ってきてほしい?」
彼女は一瞬、手を止めた。
何も言わず、作業を再開した。フライパンに油を敷き、刻んだ野菜を炒め始めた。
その姿を見て、アレックスはいろいろ考えた。
やはり本音を言えば帰ってきてほしいのだろうか。家を継いでほしいと思うのだろうか。
血筋にこだわるナヴァのことを思う。
「最近ナヴァと話してて思うんだけどさ」
あえて彼女から目を逸らして、スマートフォンをいじりながら訊ねた。
「俺のおじいさんってどんな人だった? 確か森のパガタだったって言ってたよね。あんまり交流がなかった気がしてほとんど覚えてないんだけど……、おじいさん、伯父さんと、家を継ぐとか継がないとか、そういう話してた?」
刻み野菜が焼けるいい音がする。
「――ちょっと、お母さんが子供の頃の話をしようか」
あまり聞いたことのない話題だった。
「小さい頃は何にも思ってなかったのよ。どこの家でも祭壇を作って祖先の霊に祈りを捧げるものだと思ってたし、父親は週末に狩りに出掛けるものだと思ってたわ」
自然のパガタの文化を色濃く継いだ、伝統的な街のパガタの家庭だ。意外だった。彼女は最初からクリスチャンだと思っていたのだ。
「でもお母さん――お母さんのお母さん、おばあちゃんね、彼女のルーツは草原のパガタで、奴隷だった時代を経て早くにメジャー化した街のパガタだったから、パガタ料理が得意じゃなかった。基本的にはスーパーで買える食材で料理をしたの。うちでは芋虫もワニも出なかった」
祖母の姿を思い出す。パガタのわりには小柄で、穏やかな笑顔が印象的な人だった。彼女もアレックスが中学生の時に亡くなっている。
「ただ、お父さん――おじいちゃんが狩ってくる肉は別で、おじいちゃんが獲ってきた動物はおじいちゃんが責任をもって皮を剥いで肉にするルールだったのね。で、私たち兄弟は料理として出てくる肉を食べるだけだったから、おじいちゃんが何を狩ってきたのか知らなかったの。それが、私が小学校の時はっきりした。私はものすごいショックだった。何の肉だったと思う?」
「森で獲れるんだよね? リス?」
「猿よ」
確かに、アレックスも無理そうだった。
「私が生まれた頃に、先住民差別解消法のさきがけになる法律ができたんだ。その名もなんと土人平等法。土人よ、信じられる? 法律が差別用語なの、ぜんぜん差別を解消する気のない法律だったのよ。でも表面的に、職場や学校では平等に扱う、というルールはできたわ。おばあちゃんの時代はメジャーとパガタは学校が別だったけど、私たち兄弟はメジャーと机を並べて勉強した」
今の時代では当たり前のことである。
「でも、やっぱり、まったく平等なんかじゃなかった。学校では少数派のメジャーが大きな顔をしていて、私たちパガタは召し使い扱い。メジャーたちは掃除をしなかった。私たちは掃除をした。屈辱的だったわ」
卵を割って、泡だて器で掻き混ぜて溶き卵にする。
「私はね、思ったの。パガタは猿を食べる野蛮な人種だから仕方がない。私がパガタに生まれついたのがいけないんだわ。私の髪が銀色じゃなかったら。私の目が紫じゃなかったら。――そういう気持ちは全部、自然のパガタだったおじいちゃんに向かったわ。私はおじいちゃんが大嫌いになった」
フライパンに改めて油を引き、卵を薄く伸ばして焼く。
「おじいちゃんは寡黙で穏やかな人だったから、私がどんな罵詈雑言を投げつけても一切言い返さなかった」
その姿は、想像できる。祖父は本当に静かで、アレックスはもはや声を思い出すことができない。
「私はずっとそういう気持ちを抱いたまま成人した。親に黙って改名までした。お母さん、子供の頃は、おじいちゃんがつけたパガタ風の名前だったの。ウドベというのよ。ウドベ、いかにもパガタ語じゃない? 私はそう呼ばれるのが恥ずかしくて英語のスーザンという名前を選んだのよ」
「知らなかった……」
「言わなかったもの。恥ずかしかったからね」
薄く焼いた卵の上に、白いクリーム粥をのせる。
「お父さん――あなたの父親ね、彼と結婚した時、私は自然のパガタの血筋を根絶やしにしたかったから、子供を産みたくないと言い張った。でもお父さんが、どうしても、一人でもいいから欲しい、って言うから、仕方なくあんたを産んだ。初めて抱っこした時、あんたがあんまりにも可愛かったから、いろんなことが吹っ飛んだけど。でも結局私はあんたを一人っ子にしてしまったわ」
「それは別に悪いことじゃない。俺は従兄弟も幼馴染もたくさんいたから寂しいとは思わなかった」
「そう言ってくれるのが救いね」
フライパンを返して、卵で粥を包んだ。
「おじいちゃんもおばあちゃんもあんたを抱っこしたがったけど、私は両親に極力あんたに会ってほしくなかった。あんたにメジャーみたいな人生を送ってほしかったから、自然のパガタのことは一切教えずに育てたかった」
そこで、彼女は強い語調に切り替えた。
「孫を見たがる両親に私は言ったわ。この子には英語の名前をつけるわ。いい学校に行かせて、メジャーが勤める会社に就職させるわ。そしてメジャーの女の子と結婚させるわ。私はメジャーとパガタのハーフの孫を抱くのよ」
胸の奥が冷えた。
「どんな気分だったのかしら」
皿の上に、粥を包んだオムレツをのせた。
「今思うとぞっとするわね。ふとした時に、あんたに同じことを言われたらどうしよう、って考えるわね」
「母さん……」
「あんたの周りでは、私が一番の差別主義者だったのよ」
皿をテーブルの上、アレックスの目の前に置く。
「考え方が変わったのは、あんたが小学校に入ってから。家に連れてくる友達にパガタもメジャーもいるんだもの。あんたはメジャーを自分より上の人間だとは思っていなかったしパガタを自分より下の人間だとも思っていなかった。ずっとそう。高校の時のカノジョもよ。あんたは人種では選ばなかったわ」
スプーンを並べる。
「今となっては、もう、人種、という言葉も古めかしく感じる。全部あんたのおかげ。私は息子を育てることで変わったのよ」
「そうだったんだ……」
スープ皿にコーンポタージュを入れて、オムレツの脇に置いた。
「お食べ」
「あ、はい。いただきます」
スーザンは自分の分として同じものを用意してから、アレックスの向かいの席に座った。
「驚いたわ。あんたがパガタの女の子と結婚したらどうしようってずっと思ってたのに、蓋を開けてみたら、パガタの、それも伝説の女王の部族である山のパガタの女の子と暮らしてる。でも、いざナヴァと話をすると、そんなことどうでもよくなっちゃった。だって可愛いんだもの。あの子はきっと誰にでも愛される子ね。こんな可愛い子がお嫁に来てくれるんなら、あれもこれもみんな些細なことね、って思うのよ」
そして、微笑むのだ。
「お母さんね、今幸せよ、アレックス。世界はちょっとずつ良くなってるんだって思えるからね」
人参とグリーンピースの入ったミルク粥からはコンソメの味がした。懐かしい母の味だ。
「全部、あんたのおかげよ」
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