第6話 わたしもお前が生まれ育った街を見に行きたい

 帰宅するとクリームシチューが出てきた。好物だが、面倒なので自分で作ったことはないメニューだ。したがってナヴァにも作り方を教えたことはなかった。

 スーザンが教えたのだ。


 食べるところを、ナヴァとスーザン、二人に見つめられる。実に居心地が悪い。


「……食べにくいんだけど……」

「遠慮せずにお食べ」

「たんとあるぞ」


 おそるおそる、スプーンで口に運ぶ。

 甘くてとろとろしている。濃厚なミルクの味だ。柔らかく優しい味だった。温かい。疲れた体に染み渡る。

 懐かしい。


 複雑な思いだ。

 ナヴァはスーザンから母の味を学んでいるのだ。


「おいしいよ」


 なんとか絞り出して言うと、ナヴァが「よかった」と言って微笑んだ。


「母さんとナヴァ、昼間は二人で料理して過ごしてるの?」


 それにはスーザンが答えた。


「料理だけじゃないよ。二人で買い物にも行くし――今日は区立公園近くの商店街をぶらぶらしたわ。私がナヴァにメジャー料理を教える代わりに、私はナヴァからパガティアンステッチの刺繍を教わってる」


 想像以上に充実している。


「仲がいいんだね……」


 ナヴァが「わたし、スーザンが大好きだ」と言う。


「死んだ母が生き返ったみたいだ。いや、死んだ母よりわたしを大事にしてくれている。とても甘やかされているぞ」

「だってずっと娘が欲しかったんだもの! ナヴァは可愛くて素直で勤勉な子だもの、私もナヴァが大好き!」

「そっか、そっか。そりゃ、よかったね」


 ここまで来るとアレックスの方が置いていかれている気分だ。


「明日は二人で国立美術館に行くぞ。有名な絵描きの展示があるらしい」

「ルーベンスよ。特別展なの、地元にはまわってこないからここで見ておかなくちゃ」

「母さんそんな高尚な趣味あったっけ? まあ好きにしてくれていいけど」

「お前も一緒に行けたらいいのにな」


 そこではっとして告げた。


「あ、俺日曜日仕事だから」


 ナヴァとスーザンが「えっ」と声を重ねた。


「本当は土曜日も出た方がいいかなと思わなくもないんだけど、早めに寝る日を作らないと死ぬ気がするので何とか先に休んでから日曜日に働くことにした。土曜日に休むために明日は全力投球するから、明日は今日よりもっと遅くなると思う」

「それでは三人で出掛けられないではないか」


 ナヴァの言葉を聞いてから、先週のナヴァの言葉を思い出した。当時から見て来週、つまり今週の土曜、大学で知り合った元自然のパガタの友人たちと遊園地に行くと言っていた。日中ずっと留守だ。


 スーザンは日曜の夜に田舎へ帰る。月曜以降はもういない。


 故意に仕事をバッティングしたわけではない。決算の時期とはそういうものだ。スーザンも分かっていて上京したのである。仕方のないことだ。

 だが、純粋に落ち込んでいる様子のナヴァを見ていると、罪悪感が首をもたげてくる。


「どうにかならないの?」


 二人の紫の瞳がじっと見つめてくる。


「そりゃ、俺だって、休めるなら休むけど。でも、こんなこと、年に一度のことだし。この時期だけは、どうしようもないんだ」


 二人があまりにも残念そうなので、悪いことはしていないつもりなのだが、アレックスは思わず「ごめん」と言ってしまった。


「でも、どうしても、来週会計士との打ち合わせがあるから、それまでにある程度形にしておかないといけないんだよ」


 スーザンとナヴァが顔を見合わせる。


「まあ……、しょうがないね。私もあんたが忙しいって分かってるからこそ来たんだし」


 ナヴァは不満そうだ。


「本当に、まったく時間が取れないのか?」


 胸が痛い。毎年こうやって恋人に捨てられてきたのだ。ナヴァがこれくらいで自分から離れるとまでは思わなかったが、それでもできる限り丁寧に接したかった。ただ、今は、よりによってその、できる限り、という範囲の外の状況になっている。


「土曜日の夜、出掛ける?」


 言いながら、酷なことを言っていると思ってしまった。何せ遊園地である、たくさん遊んでくるに違いない。そこを早く帰宅して別の外出をしろと言うのは互いに悲しい。


 ナヴァがうつむいた。


「スーザンが地元に帰った後、次に会えるのはいつだろう」


 即答できなかった。


「わたしもお前が生まれ育った街を見に行きたい」


 ナヴァを連れての長距離の旅行だ。しかも実家に帰るとなれば、父や親類、少年時代の友人たちにも知られることになる。相当な覚悟が求められる。簡単には返答できない。


 押し黙ったアレックスを見て、芳しくない空気を察したらしい。スーザンがわざとらしく笑って「そのうちそんな機会も来るわよ」と言った。


「ま、私もまだ五十代だし、すぐ死にはしないでしょ。いつでも遊びに来たらいいわ」


 同世代のナヴァの実母は死んでいる。


「もうごちそうさま? おかわりは?」


 スーザンに問い掛けられたので、アレックスは慌てて「もういいや、ありがとう」と答えた。


「じゃ、洗い物しちゃおうかな。終わったらホテルに帰るわね」


 スーザンが立ち上がる。ナヴァが「わたしもやる」と言ってスーザンの後を追い掛ける。


 あれよあれよといううちにテーブルの上を片づけられ、アレックスは少し情けない気持ちになった。王様や王子様でもあるまいに、上げ膳据え膳になってしまった。母親が二人、あるいは妻が二人いる状況で、しかも二人ともひとの世話を焼くのが好きなタイプだ。おとなしく面倒を見られるしかない。ただしこれもスーザンが田舎に帰るまでの残り四日の話である。



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