第5話 主任のありがたいお話
十七時になった。定時だ。
普段ならこの時間はまだ帰ってから家事なり何なりする体力が残っているものだが、今日はもうすでに疲労困憊だ。アレックス一人で流動資産も固定資産も世話をしているせいだ。心の底から、経理に必要なのは体力だ、と思う。これがまだ数日、下手をしたら二ヶ月超続くのか、と思うと暗澹たる気持ちだ。
しかも――手元のスマートフォンを見る。
ナヴァから写真画像が送られてきていた。文明の利器に馴れず簡単な文章しか送れなかった彼女が画像を正しく送信したのだ。スーザンの入れ知恵に決まっている。
写真は見覚えのあるソフトクッキーだった。アレックスが子供の頃好んで食べていたものだ。当時はもちろんスーザンの手作りだった。
スーザンに教えられてナヴァが作った、ということだ。
順調にスーザンの教えがナヴァに浸透している。二十七歳のアレックスの今現在の日常生活を母が侵食してきたのだ。ホラーである。
幸か不幸かナヴァはそれをいいことだと思って受け入れている。
はたしてアレックスはどんなリアクションをすべきか。
返信に悩みながら、自販機の並ぶ休憩スペースに移動した。コーヒーを淹れ、椅子に座ってテーブルに肘をつき、改めてスマートフォンの画面を眺める。
ソフトクッキーはおいしそうだった。焼きたての甘い香りが漂ってきそうだ。帰宅したら食べられるのだろうか。
「やあ。ここ、いいかい?」
顔を上げると、主任がコーヒーを片手にアレックスの向かいに座ろうとしていた。
「構いませんけど」
スマートフォンを伏せて「休憩ですか」と訊ねる。主任が「キャンベル軍曹公認だから大丈夫さ」と答える。
「まだ帰らない?」
「帰れると思います? いえ、上司命令なら帰りますが」
「じゃあちょっとだけ、十分ぐらいお喋りしてもいいかな。お忙しいところ悪いけど。いや僕も本当は忙しいんだけどね、今君と喋りたい気分なんだ」
「まあ、十分ならね。大丈夫です」
お喋りな主任のことだ、大したことのない用事だと思っていた。
「もしかしたら僕は今から君にとって気分の悪い話をするかもしれない。不愉快だったら不愉快だと言ってくれても構わない、ただし僕が黙る保証はない。僕はヒールを買って出た」
真剣な話であることを悟って、姿勢を正した。
「昨日隣の課から君に営業部と喧嘩してきてほしいという話が上がったのを覚えている?」
「はい、覚えています。まともに受け取りませんでしたが」
「これは僕の主観と僕の周りの何人かの考えであって部署全体の意向ではないことを念頭に置いて聞いてほしいんだけど。実は、複数の人間が君にそういう仕事をしてほしいと思っている」
「営業部との喧嘩を、ですか?」
「そう」
そこで彼は意味深な笑顔で「どうしてだと思う?」と訊いてきた。
「さあ……、分かりません。俺がそういう汚れ役を引き受けてくれそうなお人好しに見えるからでしょうか」
「実はまったく逆なんだ」
雷が落ちたような衝撃を受けた。
「君がパガタで強そうな外見をしているからなんだ」
想像もしていなかったことだ。
「君が行くと営業部の貧弱なメジャーどもはびびるのさ。パガタの戦士には腕力では敵わないからね」
動揺した。コーヒーをこぼしそうになった。震える指先でテーブルの中心の方に押しやった。
「俺、弓も槍もやったことないですよ」
「そうだろうね。君は街育ちだ」
「どうしてそんなことを」
「あくまで外見だけの話さ」
彼は冷静だった。
「体格を作る要素の半分は遺伝的な形質だ。そしてそれは人間の人格を規定するものではない。理性ではそう分かっていながらも、人間は見慣れない容姿の人間を警戒する。ましてパガタは平均してメジャーより背が高く筋肉質だ。パガタと接する機会が少なかったメジャーは相手がパガタというだけで威圧感を覚える。実に馬鹿馬鹿しいことだけどね」
確かに、少なくとも経理部にはアレックスより背が高い人間はいない。
「悲しいことに、この会社にはパガタの管理職がいない。一般社員には何人かいるが、片手で数えられるほどだし、いずれも三十歳未満の若者だ。この会社は非常に保守的で時代遅れなのさ」
経理部にいるパガタもアレックス一人だ。日常の業務で他のパガタに接触する機会はない。
「しかし、先住民差別解消法施行から二十年。それ以前の時代を生きた頭の固いじいさんどもが役員を辞めて若い管理職が動けるようになった。ようやく改革に向けて船を漕ぎ出したんだ」
その声はいつもと変わらず、少しひょうきんですらある。
「僕はね、アレックス」
主任が微笑む。
「君はそれをむしろ武器にしていただきたい」
「武器……ですか」
「マイノリティであることを振りかざして道を切り開いていただきたい。君が先頭に立って、後に続く者たちを導いていただきたい」
自分の指と指とを組み合わせて、「おおいに結構じゃないか」と言う。
「素晴らしいことだ。君は両親からメジャーがパガタらしいと思う容姿を受け継いだ。財産だ。営業部を非暴力的な手段で委縮させることができる。必要以上に争わなくて済むんだ」
そんな考え方があるとは、思ってもみなかった。
「この社会はまだまだ平等とは程遠い。理想はすべてのマイノリティの意見を吸い上げることだけど、なかなかそうはいかない。でも、誰か強いマイノリティが率先して声を上げてくれたら、多数派としてのぬるま湯に浸かった僕たちにも何かは理解できるだろう」
彼も、コーヒーのカップを押し退けた。
「パガタであることを逆手に取って出世してほしい。ザンザがパガタ俳優としてパガタ役で世に出たように、君にこの会社を変えてほしい」
「主任……」
「というわけで前置きがとても長くなったけど、本題に入るよ」
「えっ、ここまで前置きだったんですか」
人懐こい笑顔でにこりとする。
「四月から君は貸借対照表課資産係主任に内定している。おめでとう」
まったく想像していなかったことだった。一瞬、唇が震えた。
「俺、昇進するんですか」
「そうだとも」
笑って「いやあ、いいねえ」と呟く。
「転職しなければ、このペースなら三十路で課長だね。管理職だ。君が経理部の、ひいてはこの会社の未来を切り開く。それまでこの会社にいればだけどさ」
視界が、晴れた気がした。
自分の道筋が見えてきた。
毎日ただ目の前の仕事だけを楽しんでいた生活が変わろうとしている。
「中途採用の僕が言ってもぜんぜん説得力がないな」
「でも、俺が上にあがったら主任はどうなるんですか? 辞めるんですか?」
「それがだね、僕は
「国外赴任ですか? 栄転じゃないですか!」
「ありがとう、大いに祝っておくれ」
彼が「未来は明るいね」と言う。
「社会はいい方向に進んでいるよ、アレックス。この世の中にはまだまだクソなことがたくさんあるけど、大雑把に見ると、ちょっとずつ前進しているんだ」
アレックスは、頷いた。
「ところで、主任」
「何だい?」
「どうして主任がこの話をしてくれたんですか? 人事の話は課長の、アシュリーの仕事のはずです。さっき、ヒールを買って出たとか何とか」
「そう、いろいろ思うところがあってね」
ふたたびコーヒーを手元に戻して、口にした。
「僕はダウンタウンの生まれでね。母子家庭で、生活保護を受けていた」
思わず目を丸くした。
「学校でさんざんいじめられたよ、お前の家は税金で暮らしてるってね。母がだらしないから貧乏なんだとも言われた。実際母はろくに働かずに男と遊んで暮らして無計画に子供を産んでいたから、反論はできなかった。ただ、僕を馬鹿にした奴らより偉くなってやるって思って、歯を食いしばって勉強したんだ。僕は税金で高校を出て働きながら大学に通った」
陽気な彼からは想像もできない生い立ちだ。
「メジャーの間にも差別はあるのさ。豊かなメジャーが貧しいメジャーを抑圧する。この社会にある差別はパガタ差別だけじゃない」
メジャー同士でもそういうことがあるというのは少しショックだった。けれど今彼は誰にも恥じることなく職を持ち妻子と暮らしている。その上中国に行ったら収入はおそらく格段に増える。
彼を改めて尊敬した。歪んでもおかしくない環境で強く生き抜いてここまで来たのだ。
彼は強いマイノリティなのだ。
能天気に生きてきた自分が、そんな風に生きられるだろうか。
主任が腕時計を見て「おっと」とおどけた声を出した。
「三十分経ってしまった。キャンベル軍曹に怒られちゃうよ。アレックスもデスクに戻らないかい?」
「はい、一緒に戻りましょうか」
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