第4話 婚姻届を出すのにも住民登録が必要ですよ
その日の午後、やっと区役所の先住民生活支援課に辿り着いた。
窓口の職員は穏やかで丁寧な印象のメジャー女性だった。
彼女は吊り下げタイプのネームホルダーを見せて名乗ったあと、「何かお困りですか?」と問うてきた。
アレックスが口を開く前にナヴァがすかさず言った。
「夫が私を先住民居留地に追い返そうとしているのだ」
よくもいけしゃあしゃあと嘘を言えるものだ。自然のパガタの素朴な性格のイメージがぶち壊される。
窓口の職員が「あら、それは大変ですね」と言う。その様子がさほど真剣に取り合った雰囲気ではないことにアレックスは救われた。もしかしたらよくあることなのかもしれない。
「街のパガタと自然のパガタのカップルはなかなか価値観が合わなくて難しいみたいです。離婚のご相談なら、こちらの弁護士協会のパンフレットをお持ちになって、ご自身でお電話してください。DVのご相談の窓口は市民生活課です」
DVという言葉に目眩がした。ナヴァはきょとんとした顔で「DVとは?」と呟いている。
「いや、そもそも結婚していないんです」
「事実婚ですか」
「彼女をうちに上げたら居座られたんですよ」
「おうちに上げられたのですか?」
アレックスは言葉に詰まった。そもそもそこから失敗だったのだ。最初のきっかけは自分が作ってしまったのである。野良猫に餌をやるのが悪いのだ。
窓口の職員が、窓口の内側、横に備え付けられていたパソコンの方を向く。
「まあ、いずれにしても、街に来て生活に困難が生じた自然のパガタの方を保護する施設をご紹介することもできます。しばらく施設に滞在して後日改めて話し合う機会を持つという選択肢もあります」
窓口に身を乗り出し、「それだ、それをお願いします」と訴える。
「では、彼女のIDナンバーを教えてください」
ナヴァが「えっ」と呟いて目を丸くした。
窓口の女性が笑顔のまま繰り返す。
「IDナンバーです。先住民登録ナンバーですよ。居留地にお住まいの方を対象に出生届を提出された時に交付している番号です。ナンバーの書かれたカードが身分証として使えるのですが」
ナヴァは沈黙してうつむいた。
「……まさか、ないの? ナンバーカード」
問い掛けると、頷いた。
「そういうものがあることも知らなかった」
アレックスは「ええっ」と大きな声を上げたが、窓口の女性は冷静だ。
「そういうこともあります。自然のパガタで伝統的な生活をしている方には行政のシステムをご理解いただけていないことがあります。彼女のご両親ももしかしたら出生届を出さなかったのかもしれませんね」
「わたしは居留地の中にある小学校を出たので住民登録はしてあるはずだが」
最終学歴が小学校かと思うと恐ろしかったが、今はそこを突っ込んでいる余裕はない。
「居留地のご自宅にある可能性は?」
「両親とも死んでしまったから確認できない。聞いたこともない」
想像以上に壮絶だ。
驚いているアレックスをよそに、ナヴァが続ける。
「祖母が生きているが、祖母は私に巫女になってほしくて学校教育を受けることに反対だったのだ。年を取って体を悪くしたのに病院に行きたがらないくらいだ、役所にも行ったことがあるとは思えない」
窓口の職員が「かしこまりました」と言いながら棚から一枚の紙を取り出した。
「念のため登録があるか確認してみますね。どちらのご出身ですか?」
「山のパガタだ」
そう言うと、彼女の手が止まった。
「何か?」
「いえ、珍しいな、と思いまして。山のパガタの生き残りがいるなんて――」
職務に反することだったのだろう、すぐに「失礼しました、忘れてください」と微笑む。アレックスは続きが気になったが、ナヴァはまったく気にしていない様子だ。
「生年月日とフルネームを教えてください」
「知らない。春生まれの二十歳だ。フルネーム、というものもない。ただのナヴァだ」
それを聞いて、窓口の職員は別の棚から別の紙を取り出し、「ナンバーカードを作るところから始めましょうか」と言った。
「申請用紙をお渡しするので、後ろの記入台でお書きになってください。生まれ年がお分かりなら、月日は任意の、お好きな日を。ファミリーネームは空欄で結構です」
おそるおそる、「字、書ける?」と訊ねた。ナヴァが眉根を寄せて「小学校は出た」と答えた。
「しかし字を書くのは苦手だ。面倒なことになった」
「ご本人の署名が必要ですので」
「その申請は必ずしなければならないのか? 別に、施設に入らなくても、アレックスと暮らすからいいのだ」
すると窓口の職員はこう言った。
「婚姻届を出すのにも住民登録が必要ですよ」
ナヴァはすぐ「分かった! 書く!」と答えた。
ナヴァが記入台へ小走りで向かう。アレックスがその場で溜息をつく。窓口の職員が変わらない笑みを向けてくる。
「申請にはだいたい一ヶ月かかります。生活保護の申請はそれからですね」
いかにもお役所仕事だ。
「その間にもシェルターに入ることはできますが、どうなさいますか? 連絡が取れれば教会やご家族のところでも構いませんが」
「ちょっと考えます……とりあえず今は連絡先は俺のケータイにしておきます」
「承知しました」
ややしてナヴァが申請用紙を持って戻ってきた。窓口の職員は内容をチェックしてから「受理しました」と言った。
「では、今日はここまでです。何かご質問は?」
「特にないです。ありがとうございました」
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